四季一筆

徒然に。

弥生二日、詭弁か誤謬か

間違った前提で論じることを詭弁と言うらしいが、野党・某氏の質問は果たして詭弁なのか誤謬なのか。私自身としては政権側を嫌いなんだけど、この件に関しては、政権側の高度プロフェッショナルを裁量労働制からはずすというのは当然だと思う。
 
質問者は高度プロフェッショナルが「働かせられる」という表現をとっているが、そもそもそれが間違い。まるで“高プロ”を機械部品か馬車馬のように言っているけど、本当の高度プロフェッショナルは働かせられるような存在ではないと思う。たとえ大学生のアルバイトでも、高度なスキルを持って仕事をしていれば、実質は正社員のボスよりも偉いのだ(給料は安くても結構わがままが通用する)。その辺の仕事の経験がない人には理解できないだろうけど。
 
もし自分の裁量で「オレは高度プロフェッショナルだ」と思って雇用契約を結んだとして、わがままをボスに聞き入れてもらえなかったとしたら、実は「高度プロフェッショナル」ではなかったということ。自分で勝手に勘違いしていた一般労働者だったということ。どんなに年収が高くてもね。
 
高プロ自体の定義がダメなんだよ。「高度の専門的知識等を必要とし、その性質上従事した時間と従事して得た成果との関連性が通常高くないと認められる業務」てあるけど、「高度の専門的知識」と言うもの自体が客観基準での資格とかではなくて、実際にはその職場で必要とされるレベルより突出している場合は全て該当してくるだろう現実が無視されている。実際、その辺が決められないので、厚生省の省令で決める、て逃げてるけど、お鉢が回ってくる厚生官僚にはいい迷惑だろうね。
 
質問者側政党としては、高度プロフェッショナルという階層自体を認めたくないのかな。職業に貴賤無し、てか。が、既にそういう格差が厳然として存在しているのだよ。彼らは仕事のオンとオフとの境目が曖昧になっていて、いってみれば四六時中仕事モードなのだ。だから、時間で区切れると考えること自体がおかしい。
 
時間で区切ることが出来る仕事なんて工場労働とか接客業とか、つまりは他人に雇われて、時間的空間的な境界の内側でだけしか働かないものだ。資本の内側に拘束されている。けれども、高度プロフェッショナルは違う。
 
というか、そもそも雇われる高度プロフェッショナルなんて居なくなるんじゃないか?(いや、既に存在していないとか) 出来るやつは自営してコンサル契約で企業とやりとりしていくだろう。出来ないやつは雇われるだろう。つまり、出来ないやつは高度プロフェッショナルではなくなる。たぶん、雇用の次元とは別の次元なんだろうな。その辺を理解できていないから、政権側もすっとこどっこいな統計処理を出してきて叩かれたりしている。
 
国会でやっているのは言葉遊びだ。前提が間違った詭弁だが誤謬だかの、すれ違いキャッチボールをしているに過ぎない気がする。
 
むしろ、高度プロフェッショナルの個人自身に、労働と健康の両立を求める法律なり社会システムなりを作る、それが必要だ。知らず知らずに仕事をしすぎないようなサポートが仕組みとして必要だ。いや、これは一般労働者にも必要な仕組みだろう。雇用側じゃなくて、被雇用者側に焦点を当てた論議こそが「働き方改革」てやつなんじゃないかな。その辺をすっ飛ばして法案がとか法律がとか何とかミクスだとか、ちゃんちゃらおかしい“上から目線”。永田町の電気代が勿体無い。
 
政権側と官僚連も、野党も両方とも浅薄だから、その辺に思い至らない。この国の限界を表しているように思う(もしかして、わざとやってる?)。資料を与えられた中高生がゼロベースで議論したら、もっとましなアイディアが出てくると思うよ。
 
そもそも、「労使」という前提自体、古くないか?