四季一筆

徒然に。

弥生七日、沈丁花

図書館に出かけた先で自転車を降りると、沈丁花の香りがした。足下で花盛りだった。
 
◇ ◇
 
二十年以上昔、この町にやってきたとき、最寄り駅から自宅までの道が複雑で弱った。一軒家が密集している古い住宅街で消防車が曲がれそうもない辻を、あみだくじを折り畳むようにして歩いた。そういうのが苦手なカミサンが仕事から一人で帰ってくる時は、「沈丁花の香りがしたら、ふたつ目の角を右へ」のように道順を憶えていたのだそうだ。季節が過ぎて花の香りがしなくなったら、どうするんだろう。
 
幸いなことに、花の香りが終わるまでに道順を憶えたそうだけど。
 
◇ ◇
 
この町にやってきたけど、特段の思い入れがあったのでもなく、不動産屋が紹介してくれた手頃な物件が、たまたまこの町にあっただけ。それが理由。それから十年以上、自宅と職場の間をひたすら往復運動するだけで、生活は自宅という点と、職場という点と、それを結ぶ通勤経路という線だけが世界の全てだった。
 
それが、息子が生まれた途端に保育園を含めた三角形という面となり、公園や幾つもの病院やお店という多角形になり、お友達との付き合いで広がり、お友達の親戚という頂点を結ぶ線が何百キロも離れた面となり、息子が小学校に上がると、幾つもの面が積層するに至った。
 
そうやって、あちこちに沈丁花が咲いているんだな、この町にも人が住んでいるんだな、と初めて知ることが出来た。
 
◇ ◇
 
図書館に息子の本を返し、大田南畝を返し、井上靖を借り、町の辻に時折あらわれる沈丁花の香りの中を帰ってきた。
 
正直言うと、沈丁花の花の香り自体は、あまり好きではない。