四季一筆

徒然に。

弥生三日、節句

朝、食卓で新聞を読んでいて、読み終えた前日の夕刊の紙の角をそろえて畳み直すときに思わず「パシッ!」と鋭い音を高らかに立ててしまって、自分の父親を思い出した。田舎の父親も同じようにして、新聞を畳んでいた。
 
◇ ◇
 
ときどき、田舎の父親がここに居るような気がして、ああ、それは自分なんだ、息子に私自身を映して、そのあとの空いたところ、つまり現実の私の詰まっていた場所に田舎の父親がはまっているのだ、と気づく。
 
現実の私の肉体から、私の意識が抜け出して息子の上に重ねられるとき、抜け殻となった私の肉体のぽっかりと空いた底に、田舎の父親の残像のようなものがぼんやりと浮き出しているのだろうか。
 
そういうことが頻繁に感じられる。そして次の瞬間にほっとする。ああ、あの人は死んでしまって、もうこの世にはいないのだ、ここにいるのは私自身なのだと。
 
その繰り返しだ。
 
◇ ◇
 
見通しが利かないということで、不思議な怪異な話が山にはあるのだろう。いっぽう、海も底知れぬ水の中の見通しが利かないし、大波の向こうの谷底に何があるのか見えないということで、やはり不可思議な話が生まれる場所となる。
 
では、陽光があふれる明るい砂浜の海岸とか、そこへ向かうスイカ畑には、そんな話は生まれるのだろうか。たとえば大洋海岸と、そこへ向かう途中の広く明るい畑の広がりだとか、三浦半島の磯と、三崎口駅からそこへ向かう途中の高い空の下だとか。
 
井上靖の「大洗の月」の朗読をラジオで聞きながら、そんなことを考えていた。