四季一筆

徒然に。

夢の残り香

立派になった最寄り駅らしきところから私鉄のバスに乗ろうと並んでいるんだが、行き先の知れないバスがやってきた。私は並んでいた乗客の列から離れて、人びとが乗り込んでいるバスの前に回って行き先表示を確かめようとするが、わからない。実は結果的に割込みして並んでしまった後ろめたさがあって列から離れたんだ。

すると、いつの間にか人の流れに巻き込まれるようにしてバスの中へ。走り出してすぐに、バスは1時間くらい離れた田舎の山の中にある美術館に向かうらしいことが分かった。何とか念力で降りて、さっきのバス停に戻ろうとしているところで、目がさめた。

 

そのバスの列に並ぶ前には、どこかの建物、それもかなり大きな、空の見える大窓のある伽藍のような建物の中で迷子になっていた。打ち捨てられた細長い部屋にはカレーのニオイが残っていて(私はカレーライスが好きだ)、かつて有名な技術者だかゲームデザイナーが暮らしていた部屋なんだよ、と自然と知れた。Pタイルの床には棚や机の痕跡が日光写真にとらえられた影のように残っているし、部屋の隅にはケーブルの切れ端やジャンパースイッチの欠片が落ちている。

壁にはたくさんの野球帽やサイクルキャップ(私につば広帽は似合わない)、自転車なんてものが飾られるようにしてさげられている(そして自転車に乗るのが好きだ)。その建物の外に、バス停はあったんだ。

 

乗った電車が自分の行きたい行き先ではなくて、出発してすぐに、ああ、あっちに離れていく線路が私の乗るべき電車の線路じゃないか……のような夢を頻繁に見る。最後まで行かずに一駅、二駅ですぐに降りちゃうけど、戻りの電車が無いし、知らない土地、知らない雰囲気で、歩いて戻ろうにも道が分からない。そんな夢。

夢判断だと、人生を間違えたことを意味しているらしい。やっぱり私は人生を間違えたのかな。そのように判断するのは私自身なんだろうけど。いまの、これまでの人生に納得できていないということか。だから、未だに「まだ何とかなるかな」とか考えようとするのだろうか。

そのくせ、「年をとったから○○しなくて済むのはラク」なんて思ったりもしている。

列車に乗り間違えたなら、自分の向かいたいところへ、自分の足で真っ直ぐ歩いて行くしかないじゃないか。藪漕ぎをしながらでも、目指していた方向に向かうしかない。だろ? いつやってくるのか知れない戻り電車を待つよりも、離れて見えなくなった線路のほうに向かって、駅を出て歩き始めないと。日没までにたどり着けるのかどうかわからないけど。

それとも、間違って乗ってしまった行先に納得するよう自分を諦めさせて終点まで行くべきなのか。そもそも、私が望んでいた行先はどこなのか。単に勘違いしているという可能性はないのか。間違った行先が、実は本来の目的地だったとか。

この列車やバスがどこへ向かうのかすら知らないのだから、何が間違いで何が正しいのかの判断はできない。ただ、この電車は間違っている、自分は乗り間違ったんだ、という確信だけは持っているのだ。何が正しいのか知らないくせに、いまの自分が間違っているという確信だけは抱いている。

まるで憶えていない夢の印象だけが、目覚めてもなお記憶に痕跡として残っているにも似て。その残り香が、迷いを起こし心を掻き乱すのか。

年寄りの抱く不満の正体かもしれない。