四季一筆

徒然に。

卯月四日、偶然という必然

私の好きな映画『ノウイング』(Knowing、アレックス・プロヤス監督、ニコラス・ケイジ主演)に、MITで講義をしている主人公が学生から、先生は宇宙は偶然だと思うか、必然だと思うか、と問われて、宇宙は偶然に出来たもので意味なんて無い――なんて応える場面がある。
 
ワタクシ的には、宇宙が偶然なのか必然なのかなんてのは、まさに意味のない問いだと思うのだけど、娯楽的には面白い問いだと思う。敢えて答えるとすれば、宇宙は必然なんだと思う。その必然性を未だ知らないだけなのだ。
 
◇ ◇
 
全ての事柄は、最初からその意味が定まっている、言い換えれば、次に何が起きるのかが全て決まっている。人間がそのことを知らないだけなのだ、というのが「宇宙は必然」論。
 
いっぽう、数限りない試行の結果(思考ではない)、あらゆる組み合わせが試された結果として、いまここに我々が立っているのであって、それは偶然の結果にすぎない、というのが「宇宙は偶然」論。
 
どちらも人間があれこれ考えているのだけど、たとえ「偶然」論であったとしても、そこに仕組みとか成り立ちとかを見つけ出そう、意味を見出そう、後付けであってもいいから意味を見つけようとするのが人間であるとしたら、そこに見出された意味が人間によって後付けされた=発見されたものであっても、最初から何か偉大な存在によって意味づけられていたことを単に発見しただけだとしても、どちらも同じじゃないかと思うのだ。
 
◇ ◇
 
自分の鼻先から前には広大無辺な真っ暗闇が広がっている。自分の後ろには明るい世界がはっきりと見える。自分は真っ黒な壁の前に立っているような感じだ。けれども、足を動かすとちゃんと前に進んで、進んだ分だけ暗闇が後退する。後退した暗闇からは、自分の歩いている道がこちらに向かって繰り出され、自分の後ろに伸びている。
 
であるとすると、暗闇の向こうには何かが用意されているのだろうけど、それを知ることは出来ない。何をしても決して知ることが出来ない。でも、確かに何かがあるようだし、実際、足下に道が繰り出されてくる。これまで歩いた道について、私はよく知っている。
 
だったら、この先にも何かを期待してもいいんじゃないか、そこに意味を推量してもいいんじゃないか、いや、きっといいに決まっている。そのように世界が出来ているのだ――と考えたくもなる。
 
◇ ◇
 
現実というのは、上から落ちてきて道を塞いでいる大石のようなものだ。大石は遥かに大きくて、そのままでは石の向こう側を見ることは出来ない。見るには石の両側を回っていかねばならないが、片側は断崖絶壁で足を踏み出したら墜落必至だし、反対側は取り付くことも出来ないような高い崖だ。もちろん、石に登ることなんてできない。
 
このように、自分の歩いてきた道を塞いでいる大石の向こう側には、確かに道が続いているはずなのだが、それを確かめることができない。石の向こう側を見ることは決してできない。
 
であるとすると、どうするか。
 
大石の向こう側に続いているであろう道に思いを募らせながら大石が消えてくれるのを待つか、死を覚悟で石の横を回り込むか、向こう側の道のことなんて忘れて石に寄り添って暮らしていくか。
 
◇ ◇
 
知り得ないものについて云々するのは意味のないことだし、それについて思考実験を行っている自分自身の存在を勘案しないというのも意味のないことだ。
 
何を言いたいのかというと、「人生の目的なんて、問うだけ時間のムダだ」ということ。ここに居るからいるのであって、なぜ居るのかなんてことを問うのは無意味だということ。
 
もちろん、物理学の問いとしての宇宙創生の研究というのは意味がある。学問として意味があるし、物体の成り立ちを解き明かすことは経済的な利益を期待できることですらある(生臭いけどね)。
 
けれども、自分の人生の目的なんてのは問うだけ無駄だ。いまここにあるのだから居るのである。「自分が考えているから自分がいるのだ」なんてまだろっこしい事を言っていた偉人が居たみたいだけど、お前がそんなことを考えようが考えまいが、お前はそこに居るんだよ、と。
 
そんなヒマがあるなら、「如何に生きるのか」について考えろよ、と半世紀生きてきたオッサンから、若い君への忠告だ。
 
◇ ◇
 
そういうわけで、かなり長い時間を私は無駄に過ごしてしまったなぁ、と思うことがあるのだ。けれども、それはそれできっと、意味があるに違いない。そして、人生をやり直せたとしても、きっと同じ選択を繰り返していることだろう。意味を見つけるというのは、そういうことなんだ。