四季一筆

徒然に。

皐月朔日、五分の魂

台所でカミサンが「うわぁあ、おぅ!」と驚いているので何かと見れば、レンジフードの角から小さめのハエトリグモが、ツツっぅーとカミサンの鼻先に降りてきていた。あ〜、殺さない殺さない。益虫だから。ゴキなら発砲を許可するけど。
 
降りてきて、途中で止まって、前足で見えない糸を手繰って上に戻り、また降り、を繰り返している。ああ、あの子か、とわかった。
 
◇ ◇
 
ダイニングテーブルで書き物をしていた時のこと、テーブルの向こうにあるカミサンの椅子の背にかけられた服で何か動いている。見ると、ハエトリグモだった。1センチもなくて、全体は茶色っぽい。
 
ハエトリグモというのは蜘蛛の巣を張らない徘徊性のクモで、数十種類いるそうだ。クモ嫌いの人には禁忌かもしれないけど、ネットで画像検索すると、目がクリックリッの可愛い写真がたくさんヒットしてくる。
 
しばらくすると、小さなハエトリグモが、書き物をしている私のノートのすぐ先にまでやってきていた。指先を出すと逃げもせずにじっと見ているふう。その指先を細かく左右に動かすと、前足を僅かにあげて、何か思案しているみたいだった。
 
ノートや紙を動かしたときに傷つけるとかわいそうなので、手近のメモ紙でそっとあちらに放ってやった。
 
しばらくすると、今度は息子の椅子の方からやってきた。そして、私の書いている右手の近くに止まって、じっとしている。またメモ紙で放ってやった。その後、その子はテーブルにはやってこなかったけど、台所を徘徊していたらしい。
 
カミサンの顔を見ようとしたのか、レンジフードからカミサンの鼻先に降りてきたという塩梅。親子三人、台所のコンロの前にポカンと立って、しばらくクモの懸垂降下を見ていた。頭良さそうだね、て。
 
◇ ◇
 
四角い顔の正面に、八つの目のうちの四つが並んでいて、正面の目玉ふたつはかなり大きい。きっと詳しく見るためのものなんだろう。
 
別の日には、台所のシンクの縁で、じっとシンクの中を見ているようなので、何が見えるのかなぁ……、そっと後ろから近づいたら、まるで肩越しに振り替えるように首を曲げて顎を上げて頭を傾けてこちらを見た。そして再び、シンクの観察に戻った(ヒトのような肩も首も顎もないけど)。
 
可愛い。
かなり可愛い。
これ、萌えってやつか?
 
もしかしたらちょっとした知性とかあって、こちらのことを憶えているとか、猫並みの理解力があるんじゃないかとか思ったけど、ネットによると、単なる本能と反射なんだそうだ。それにしても、まるで好奇心いっぱいの子どものようじゃないか。
 
◇ ◇
 
以前、息子を連れて池袋の水族館に行ったときのこと、ミズダコの水槽があって、その前にカップルが貼り付いていた。「タコ、こっちこないかなぁ」。当のミズダコは海老茶色の斑模様をして、海底の岩を模した置物の向こう側でじっとしている。目がヤギみたいだな。
 
毎日、こうやってたくさんの人間が覗き込んでは、「こっちこないかなぁ」なんてやってたらウンザリだよな。
 
そう思いながら近づいて、水槽の前のカップルの背後からじっとタコの様子をうかがい始めると、ミズダコがいきなり水槽の向こう側から舞い上がり、真っ白に色を変えながらこちらにやってきた。そして水槽のガラスにくっつき、じっとヤギのような目でこちらを見つめている。
 
「こっちこないかなぁ」のカップルは大喜びで写真を撮っていたけど、私はびっくりしたし、怖かった。ああ、何か訴えようとしている、何か頼まれたらどうしよう、て。あの目には知性があった。そう思う。
 
◇ ◇
 
急いで水槽を離れた私は、ミズダコを裏切ったような後ろめたさを感じていた。タコに選ばれたというちょっとうれしい気分もあったけど、それ以上に申し訳なさのほうが大きかった。
 
そのときの私は、無印良品の「フレンチリネン洗いざらしシャツ 紳士L・白 税込3141円」を着ていたのだった。あのミズダコは、私と同じ色になって何かを訴えようとしていたのだろうか。
 
コ・コ・カ・ラ・ダ・シ・テ