四季一筆

徒然に。

弥生十一日、中継録画

『死都日本』(石黒耀講談社)なんて読んでしまったから、霧島・新燃岳の噴火が他人事じゃないように感じられ、しばしば、NHKの中継動画なんぞを見てしまう。別段、大噴火しているとか火砕流が山腹を駆け下りているわけでもなく、山頂部分からゆっくりと白い水蒸気と思われるものが湧いて、青空に溶けるように消えている……と、そんなのどかな景色しか見えないわけだけど。
 
地元の人にとっては災難であって、降灰だけでも煩わしさを通り越した迷惑なんだろうから、スペクタクルな中継映像なんて勘弁願いたい、というところだろう。灰煙の中を登下校している小学生が可哀相だ。
 
◇ ◇
 
けれども、ついついこの手のライブカメラとか中継動画とか「LIVE」というものを見てしまう。そして、動画を流しっぱなしにして別のことをしていたりする。つながっている、その画面の向こう側に、今現時点での生活や世界が広がっている、存在しているということが大切なのか。
 
まるで深夜ラジオの生放送みたいだな、と思う。
 
そして、たとえば気象庁だかどこかの提供している韓国岳に設置された中継カメラからの、新燃岳頂上を見下ろす映像を肴にして、チャットが進行していたりする。まるで街頭テレビの前で立ち止まって、知らない人とおしゃべりしているような感覚だ。
 
◇ ◇
 
YouTubeには色んな中継動画があって、YouTuberという人達が自分をネタにしてライブ放送をやっていたりするけど、ワタシ的に好きなのは、例えば海外のどこかの片田舎の交差点の様子を、延々流し続けているようなチャンネルだ。
 
相当な降雪で、積雪も半端ない田舎の交差点を撮り続ける固定カメラの前を、ときどきピックアップトラックが通り過ぎたりして、それを肴にチャットが進んでいたりする。暇な人もいるもんだけど、自分だってそんな映像とチャットを眺めているんだから相当な暇人だ。
 
あのトラックは◯◯社の2007年式△△△だ、リアゲートのヒンジが独特なんだよ……あの plow(プラウ、除雪器)はクールだね……雪道だけに……それな――なんてノンビリとした雑談が画面の脇で進んでいく。
 
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子どもの頃、テレビでよく聞いた科白が「中継録画でご覧いただきましょう」。
 
「中継録画」というのは、録画してあるライブ映像ということ。そんなの当たり前じゃん、の現代なわけだけど、大昔はそもそも「中継」しているコト自体が大変なことだった。テレビ放送なんて、基本はスタジオの中で撮られたものか、外で撮るなら一度フィルムに撮ってから現像して編集したものを放送していた。
 
それが、スタジオの外にあるカメラから直接映像が送られてきて、それがそのまま全国のお茶の間のみなさま(古いな)に送るのが普通になったなんて、大変なことだった。たとえ放送されるものが録画された動画であったとしても、スタジオの外から送られてきてそのまま録画されたというのは、ものすごいコンテンツだった。
 
◇ ◇
 
いまじゃ、スマホひとつあれば、どこからでも“中継放送”が出来てしまう。見る方だって、スマホやPCがあれば、個々人レベルの興味に合わせて、安全な自分の部屋の中で見ることが出来てしまう。それも、何のイヴェントもドラマもスペクタクルもない、田舎の交差点を延々眺め続けることが出来る。
 
何かが起きることを期待してもしなくても、その場に居るような感覚を簡単に得られる。
 
その時、人の意識の壁というか皮膚感覚というか、それはどうなっているんだろうか。自分の皮膚、衣服、そして部屋の壁、外の通りと隔てる塀、そして通りの歩道……と言った具合に、何重にも取り巻かれて安全な場所で、画面の向こうには“リアル”な世界が同時進行している。
 
別に批判しているのでもなければ、新時代として受け入れねばならないと強迫観念に駆られているのでもない。そのような“ライブ”が、新たな皮膚感覚とか身体感覚とかを生み出しているのかな、と。