四季一筆

徒然に。

皐月二十四日、おこちゃまの時代

以下は私見です。偏見に満ちています。取り扱いにご注意を。
 
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このところの報道を読んだり聞いたりしていると、まるで子どもだなぁ、と思う事件とか情勢ばかりで、一体なんだろな、と。
 
知らない、憶えてない、捨てちゃった、でも探したら出てきたよとか、まるで幼児のような言葉ばかり聞こえてくる。しかも、それについて「追究」している人たちも似たり寄ったりで頼りない。どうしてこんな具合になっちゃったんだろ。
 
こんなんでは、若い人が絶望したり、人柄が信頼できないけど過去の実績があるから消極的に賛成とか言いたくなる気持ちがわかる気がする。
 
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気づいたんだけど、これらのキーパーソンというのは1950〜1964年に生まれたいわゆる「しらけ世代」と呼ばれる人たちなのかな、と。戦後の焼け野原を、文化的に焼け野原にしたのが「団塊の世代」だと私は思っているんだけど、その文化的焼け野原で「個人主義」とか「自己実現」なんて毒を吐き散らかしながら、らくらくと流れていったのが後続の「しらけ世代」なのかな。
 
そのまた後続である「バブル世代」とか「新人類」と言われるところに私自身は属していて、自分よりも約10〜15歳年上の「しらけ世代」を時代の先端を表す iconとして認識していた。私が中高生のころ彼らは20〜30代で、いよいよ世の中で大活躍する――というタイミングだったわけだ。
 
だから、そんな憧れの世代をお手本として、「個人主義」だとか「自己実現」なんて言葉に酔っていたし、そんなお題目が1980年代のバブルにお似合いだったし、そのバブル世代をドライブしていたのが「しらけ世代」だ(よね?)。そして、その「しらけ世代」に引き立てられたのが私たちの世代だ(よね?)。
 
だから、カネと生半可な経験とで浮かれていたのだから、どうしても浅薄になる。簡単に言っちゃうと、いつまでも思春期の気分でシニアになっちゃったんじゃないか、と思うのだ。そして、そんな人達が、世の中を動かしている最終世代として実権を握っちゃっている。
 
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むかし、「ろぼっ子ビートン」というアニメがあって、そこに登場する“悪役”に“いい年をした親爺なのにガキ大将”という「ガキオヤジ」というのがいた(実は超大金持ちらしい)。好意的な言い方をすれば“永遠の若者”なんだろうけど、つまりはいつまでも未熟ということ。
 
こういうガキオヤジ的なものが、個人主義を手軽に自己実現する方法として、カタログ系雑誌の情報に頼るとかすることで、知の分業のようなものが発生したんだと思う。つまり、考えなくなった。知識がファッションとかブランドの裏書きとかになってしまった。
 
目的のために論ずるのではなく、はたまた論ずることが目的というのでもなく、論ずることがファッションになってしまった。論じていることが何らかの体裁を備えていれば、記号として何やら意味が成り立っているような雰囲気を演出できるような時代になってしまった(この文章自体が、そのような証拠として成り立つかもしれない。だがそれは同時にパラドクスでもある)。
 
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私自身、プログラマという“概念操作だけで何かをした気分になること”を仕事にしているので、あれこれ批判すると完璧に自己批判につながっちゃうんだけど、まあ、そういうことだ。
 
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この文章を書くためにウィキであれこれ読んでいたら、山本夏彦のこんな一節にぶつかった。「毒言独語」(実業之日本社、1971)にあるらしい。
 

論より証拠というけれど、証拠より論である。論じてさえいれば証拠はなくなる。/これはすこぶる好都合である。いつ、いかなるときでも、我々は恐れいらないですむ。/ただし、一人ではいけない。徒党してがんばらなければいけない。がんばれば大ていの証拠はうやむやになる。そのよしあしは、むしろ各人お考えいただきたい。証拠より論の時代は、当分続く。
 
まだ続いているようだ。