四季一筆

徒然に。

皐月八日、いつも何かを待っている

かつては、待つことが物凄く苦手だった。何かを待っているというのは、大概は何かろくでもないことを待っているのであって、このまま待っていても、待たずに席を立っても、いずれにせよろくでもない結果になることがわかっていた。
 
一種の“究極の選択”のようなもので、待つほうが幾らか程度の悪さが軽いといった具合。そして、大概は自分で待っているのではなくて、誰かに待たされていた。
 
いつも私たちは何かを待っている。
 
待つという行為は、自分から何かを待つのではなく、自分以外の他者の意思の訪れを期待してそこに居続けるのだ。それが「待つ」という行為だ。待つという行為には、実は「待たされる」という受け身と、「待たせる」という使役しか存在し得ないのではないか。
 
◇ ◇
 
たとえば、病院の待合室で診察の順番を待っている。これは診察を受けることを望んで待っていると言えるが、よくよく考えると自分自身の本当の望みは診察を受けることであって、待つことではない。病院の都合で待たされているのだ。
 
たとえば、釣り針に魚がかかるのを水面に釣り糸を垂らして待っている。魚を釣り上げたときの喜びや、それを食べるときの楽しみを想像して、魚がかかるのを待っている。だが、釣り針に魚がかかるかどうかは魚次第なのだ。実は、魚に待たされている。
 
◇ ◇
 
いやいや、待つということ自体に楽しみがある、待っている間に色々なことを想像して、ああ、この列の終わりには美味いスイーツが待っているのだとか、この行列の先には楽しい時間が広がっているのだ、という具合に、待つことに意味を見いだせるし、待つことが楽しいじゃないか――という見方も出来よう。
 
だったら、180分待ちで、さあ、いよいよスプラッシュ・マウンテンだぞ、となったときに「お客様は十分に待ち時間を堪能されたと思われますので、本日のご利用は終了です」なんて言われて乗ることができなくても納得できるだろうか。待つことの先にある可能性が期待できるから、待つことを楽しめるわけで、つまりは待った結果が保証されていると盲信できるからこそ、待っていることに楽しみや意味を感じられるのではないだろうか。
 
◇ ◇
 
そのようにして、私たちは待たされ続けている。そして大概は、待たないで立ち去るよりも、そのまま待ち続けたほうが、少しはマシな結果になるだろうというお膳立てが用意されているのだ。だから待つ。いや、待たされる。でも、自分でマシな方を選んだと思っているから、自分は待たされているのではなくて、「待っている」のだと錯覚している。
 
齢(とし)をとって、ようやくそんなカラクリがわかってきたような気がする。
 
◇ ◇
 
何かを捨てない、というのも待つことのひとつの形だ。持ち続けること=待ち続けることが、何かを期待させる。だから捨てない。その期待に待たされている。「そのうちきっと、使うときがあるから」
 
◇ ◇
 
齢をとっていいことは、待つことが苦にならないということだ。我慢というのではなくて、何もなくても待っている間の暇つぶしができるようになる。これまでの経験とか記憶とかの蓄積があるから、スマホや本が手許に無くても、自分の頭の中だけで暇つぶしができるのだ。
 
だから、最近の私は待つことが嫌いというわけではない。平気で何時間でもヒマつぶしできるというのは、年寄りの特技のひとつだな、と思う。