四季一筆

徒然に。

如月十八日、春暁には遠く

孟浩然の享年と同い年になってしまったが、ともかく眠いのだ。座っているだけでいつの間にか目をつぶって眠り込みそうになる。春眠と言うには寒すぎる。そもそも春眠とは昼寝のことを詠っているわけではないし。
 
◇ ◇
 
きのうに続いて夢の話。
 
夢の中で流れている時間は、物凄く早いように思う。中高生時代は公共交通機関で通学していたが、とにかく貪るように眠っていた。往路の朝も復路の夕も、電車の中でもバスの中でも、わずかな時間であっても座れたら眠り、しかも乗り過ごしをしなかった。
 
バスでは、停留所に停まりそうになるたびに目醒め、自分の降りるバス停ではないことを確認して再び眠りに落ちるという、いま思えば怖ろしくも器用なことを平気でやっていた。
 
バス停の間なんて、走行時間は地下鉄や山手線の駅間と同じようなもので、そのたった2、3分の短い眠りの間に、長大なストーリーの夢を見ていたりする。夢の中の時間では数十分とか数時間とか、そんな長尺のストーリーなのに、現実世界ではバス停ひとつ分の2分間だ。
 
普通に考えれば数十倍から数百倍の速度で話が進行していることになり、とすると登場人物のお喋りや行動なんて目にも止まらない速さにまで加速されているはずなのに、夢の中では何ら違和感を感じない。
 
夢の中に自分の意識が取り込まれているから、自分でその異常な高速性に気づけないのか、それとも盛大にストーリーが端折られていて、省略された部分については既に既知の何かがあてがわれているから、意識がその参照点を知っているだけで安心して、あたかもその省略されたことを体験しているかのように勘違いして平気な顔をしているのか。
 
ともかく、さっきの停留所で目覚めてから次の停留所までの間に、そんな長尺の夢を見て、目醒めて、驚きつつバスを降りようと席を立つ自分がいる――という体験を頻繁にしていた。
 
◇ ◇
 
時間というのが主観的なもので、けれどもそれが時計という客観的な機械装置で計測されるから、その夢が長かったのではなくて「長く感じた」ことを知るわけだし、楽しい経験が「あっという間だった」のにもかかわらず、ビックリするくらい時間を食っていたんだとわかる。
 
だが、本当にそのような客観的な時間というのが信頼できるのだろうか、どうなんだろうか、と思うこともある。
 
◇ ◇
 
もしかしたら、客観的と思われる物理時間というものは、宇宙全体か、それともある特定の領域――例えば太陽系内限定とか、ともかくそのような全人類が気づかない範囲で時間の流れにゆらぎが発生しているんじゃないか、と思うことがある。
 
ときどきだけど、「きょうは何か時間の経つのが遅いよね」のような会話をしたりすることがある。そんなとき、本当に物理時間の進行が遅くなっていて、けれども物理時間に拘束されない人間の意識だか感覚だけがそのことに気づいていて「きょうは遅いよね」となっているのではないか、と。
 
◇ ◇
 
ツイートで、ときどき見かけるのは「いま揺れた?」というやつだけど、同じように「きょう時間がのろい?」とか定量化できるウェブサイトやアプリを作ったら、実は本当に物理時間が遅くなったり早くなったりしているらしいことが発見されるのではないか……なんて思ったりしている。
 
けれども、物理時間に拘束されている計測機器とか観測装置には記録されない。なぜなら、物理時間のゆらぎと一緒に、観測機器類の内部時計もゆらいでいるからだ。頼りになるのは人間の主観だけ、というような事態が、インターネットという一種の巨大な感覚加速装置に“観測”されたとしたら、科学者はその結果をどのように扱うだろうか。