四季一筆

徒然に。

如月十七日、文脈依存

眠っている間に見ている夢は、すべて総天然色だ。
 
人によっては白黒だったりするらしいが、私が目醒めたときに憶えている夢には、すべて色がついている。だが、極彩色ではない。結構、淡白な配色だ。
 
◇ ◇
 
夢の中では、現実世界ではあり得ない状況や場面転換が起きているのだが、その夢の中にいる限り違和感を感じることはない。砂浜を歩いていたのに森の苔むした倒木を乗り越えたりしても、何の不思議も感じないでストーリーは進行していく。もちろん、見回せば、そこは深い森の中だ。
 
もし夢ではなく、目醒ている現実世界でそのような場面転換が発生したとしたらギョッとするだろうし、恐怖だろう。理解できない状況に立ち止まり、ストーリーは一時停止する。
 
けれども、夢の中ではそのような停止は発生せず、どんどんと話は進んでいくし、自分もそんなものだと妙に納得しているのかいないのか、ともかく自分を取り巻く世界が変化したことに何の支障も感じていない。
 
◇ ◇
 
自分を取り巻く世界全体が「そういうもんだ」と一斉に場面転換しているので、その世界に取り巻かれている自分も「そういうもんさ」と納得しているのだろうか。
 
いっぽう、現実世界でそのような場面転換が起きたとしたら、その直前まで経験していた世界との間に不連続を認めてギョッとするのか。直前の記憶があるから、その記憶と照らし合わせて今現在この瞬間が不連続なのだ、と気づける。
 
だとしたら、夢の中では自分を取り巻く世界の転換と同時に、自分自身の記憶の転換も行われているのだろうか。だが、夢の中で、直前までの“経験”について憶えていることが結構あって、直前の場面のことを持ち出して夢の中の誰かに話していたりする。ということは、自分の直前の記憶と今現在とが照応しないという差異を認識しているというわけでもなさそうだ。
 
似たようなことは他にもあって、会社のデスクで執務をとっているのに詰め襟の学生服を着ていて、目を上げると試験が終わって、教室を出ると別の高校に行ったはずの小学生時代の同級生が小学生の頃の顔のまま、同じ詰め襟の制服を着て廊下を歩いているが、それが大学の研究棟の中だった、とか。そこには、何の違和感もない。直前の記憶どころか、小学生時代なんて何十年も前の記憶が登場したとしても。
 
◇ ◇
 
もしかしたら、世界全体が転換するということ、その転換した直後の今現在というものに完全に依存しているから、ギョッとすることもなくストーリーが継続しているのではないか、とか思った。自分の記憶の不連続ですら納得できる、自分の価値観ですら上書きできてしまう、そんな強制力が夢の“現実”にはあるのだろうか。
 
もし目醒ている現実世界で、そのような強制力ある“現実”とか“世界”が可能だとすれば、その前では個人の記憶とか問題意識なんてイチコロなんじゃないだろうか。スティーブ・ジョブズディストーション・フィールド(現実歪曲空間)であり、カルト集団であったりするのだろう。同調圧力というやつも、その一種だろうか。
 
人の意識が、その人を取り巻く環境に依存しているとして、その環境が信頼できるのかどうか、どうやって確かめるべきなのか、それともそんなことを問うこと自体が無意味なのか。
 
毎朝、寝床で目覚めることに違和感を感じないのは何故だろうか。そもそも、夢から醒めて、ああ、現実に戻ってきたんだな、眠っていたんだな、と思うこと自体が「世界の転換」=「夢から醒める」ことなのに、それについて何の違和感も感じていないというのは、果たして大丈夫なんだろうか。
 
どうなんだろね。