四季一筆

徒然に。

如月七日、前置きという若さ

眠れないなら布団の中でじっとして考え事でもしてればいいものを。
 
早朝、ふだん起きるよりも一時間近くも早い時刻に目が醒めてしまって、再び寝付けないし、かといって起き出すには早すぎるから、と枕元の明かりを点して本を読みだしたら、隣で寝ていた家族が目を醒ましてしまって、結局寝床を離れなければならなくなった。――という話を聞いた。
 
じっと黙って寝床に臥しているいることができず、自分の外側のものでしか気を紛らわせることが出来ないというのは、まだまだ若いということかと思う。
 
◇ ◇
 
歳をとってわかるのは、自分の記憶と思考だけでもかなり間(ま)がもつということ。退屈することがなくなってきたということだ。一人きりで何かを待っていても眠たくなることが少なくなった。それよりも、他人の思考にあわせているときの方が、退屈して眠くなる。何でそんなにまどろっこしいお喋りをするんだ、と思ってしまう。早く核心に迫れよ、と。
 
つまり、人生経験が無駄に長いだけ色々なくだらないことがパターンとして、頭の中にいつの間にか沁み込んでいるので、そのぶんだけ前置きが不要になっているということだ。すなわち、最近は前置きが不要なことしか相手にしていないということでもあるわけだが。
 
◇ ◇
 
世の中の新しいことは前提とか基礎知識が未知のもので、初見でその正体はわからないから、どうしても前置きが必要になる。前置きが不要なことは新しいことではないから、つまりそれは年寄りの繰り言に近いものだ。
 
◇ ◇
 
私の想像の中に何度も登場する「S海岸のカフェバー」(1980年代の)とか、そういうのは前置き不要の老人の繰り言化した妄想なんだろう。何度もポケットから取り出しては眺め返しているうちに、指のあたる部分が擦り切れてしまったポラロイド写真のような、私だけの想像の店なんだけど。
 
日常生活の中で、ふとした瞬間に脈絡もなく、その店の中が映像として浮かんでは通り過ぎていく。一度もしっかりとつかむとか、具体的に思い描いてみるとかしたことなんてないんだけど。もちろん、店の外なんて一度も見たことがない。扉を入った直後の一瞥で、右手のカウンターと左手のテーブル席の並ぶホール、そして正面遠くに、水平線がはまり込んだ窓が左右に伸びている。ただそれだけだ。
 
店の入口という前提が不要なだけ、年寄りの繰り言化が進んでいるのだろう。