四季一筆

徒然に。

如月八日、きれいな「男の娘」の意味

どこかの公立中学小学校が、外国の高級ブランド監修の高価な制服を発表したとかで、その件で財務大臣に国会で質問があったとかで、ほんと、そんな莫迦な質問に税金使うなよと思う。
 
私立中学の入試がそろそろ落ち着いてきて、先日の塾の受付が混んでいたのは、たぶん合格の報告で6年生が来ていたのだろう。時期的に、新年度の制服が話題になる季節というわけか。
 
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ある公立中学がジェンダーフリーな制服を発表したとか何とかあって、つまり実際にそのような服装を選ぶかどうかという意思の話とは別に、性別に関係なくスラックスなのかスカートなのか、ネクタイなのかリボンなのかを選べるということ。
 
その話題からリンクをたどって「男の娘(おとこのこ)」の画像検索で、たぶんその実物と思われる写真がたくさん出てきたのだけど、それがどれも生物学的な女の子よりも可愛いものばかり。なんだろ、これ。
 
二重まぶたの化粧と長い髪の毛は必須のようで、気づいたけど、このきれいさとか可愛さは平均化の結果なんだな、と。人間が美男美女とか可愛いとか感じるのは、平均顔だからなんだ。可愛い(=カワイイ)は平均化された幼性というやつだろう。生物的に平均値なのだ。
 
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美しさには二種類あって、ひとつはこの平均化によるもの。もう一つが芸術性によるもの。
 
芸術性は、平均化とは正反対のもので、大きくブレてハズしているところからくる驚きのようなもの。予期しているところをハズしてくるので驚きがあり、その驚きが美しさに訴えてくる。でも所詮は異様・異質なものだから疲れてしまう。草間彌生作品はものすごい訴求力をもっているけど、四六時中、あんな目を離せない世界に取り囲まれて暮らしたら相当に疲れるかもしれない(だろ?)。
 
平均化による美しさというのは、多くの人々が信じている理想像を目指すもので、それは歴史的にも生物学的にも、もしかしたら物理的平衡ということででも安心できる何かなのだろう。だから安心していられる。言ってみれば、それがある種の基準として働いて、概念的な基盤とか原器として機能してくれる。
 
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「男の娘」とか美男美女とか可愛いとか、それらは見てくれを整えての平均化による美しさで、言ってみれば工業デザインが目指す美しさと同じなんだな、と思う。ゲージツとは違う。だから化粧や整形、髪型、衣装といった標準化装置が必要になる。
 
でも、物事の本質が表層にあるのだから(その辺、みんな勘違いしてるみたいだけど)、見てくれを整えての美しさを目指すのは正しいあり方なのだろう。もちろん、芸術性も表層での表現にほかならないのだが、それは平均化から外れるという異質性・差異によって勝負してくる。個々のシワやシミ、ホクロのような多様性だ。
 
平均化による美しさというのは、表層の差異の基準値のようなものだ。その基準値があるからこそ、差異が検出される。一種の通貨のように、原器のように機能するのが平均化による美しさ・可愛さというものらしい。
 
それにしても最近の女装は、本当の女性よりきれいに見える。美しさ・きれいさは平均化によるものであるとすると、それは本当にきれいなんだろう。けれども本来的にきれいということとは別に、女装というものが意味を帯びるのは、あくまでも男性に対する女性という存在と概念が前提としてあるからなのだ。つまりは比較による差異があるからこそ、女装とか「男の娘」というものに価値や意味が生じてくる。
 
そうでなかったら、そこにあるのは平均化による美しさだけだ。そこには愛でるという意味しか生じない。キログラム原器のようなものかな。