四季一筆

徒然に。

如月一日、組み込みとしての依存症

息子と話をしていて、「中毒」とか「依存症」という話になった。あいつは勉強中毒だ――と基本的に勉強嫌いな息子が、自分の友達のことを指して言う。
 
「中毒」にはふたつの意味があって、ひとつは何か有害なものを体に取り込んでしまって、それで気分が悪くなったり病気になったりすること。例えば水銀中毒とか食中毒という言葉がある。
 
もうひとつは、何かに馴れてしまって感覚が麻痺してしまうこと。アルコール中毒とかニコチン中毒とか。そしてこの二つ目については「依存症」と言うことが多い。この傾向は、アルコールやニコチンよりも、ギャンブルについて強いみたいだ。「ギャンブル依存症」。
 
◇ ◇
 
「依存症」だが、手元の「スーパー大辞林」には載っていなくて、デジタル大辞泉には次のように説明があった。
 

依存症 イソンショウ
デジタル大辞泉の解説
いそん‐しょう〔‐シヤウ〕【依存症】
 
《「いぞんしょう」とも》ある物事に依存し、それがないと身体的・精神的な平常を保てなくなる状態。アルコール依存症のような物質に対するものと、インターネット依存症のように行為に対するもの、共依存のように人間関係に対するものがある。
 
 
大概は有害なもので、それが無いとフツーでいられなくなってしまうというビョーキの構造だ。だから、「酸素に依存し、酸素がないと身体的・精神的な平常が保てなくなる状態」は依存症とは言わない。要るんだから。無いと死んじゃうんだから。
 
人がより良く生きていくのに必要なものは、依存していても依存症とは言わない。地球の水や大気、日常のありふれた食事とかもだ。
 
と考えてみると、勉強というのは人がよりよく生きていくためには必要なことなので、「依存症」とか第二の意味での「中毒」というのは当てはまらないんじゃないかな、と息子に言ってみた。
 
◇ ◇
 
しかし、その後しばらく考えてみて、「依存」とか「依存症」というのは、もしかしたら人間にとって必要だから存在しているんじゃないだろうか、とも思い始めた。
 
人がよりよく生きるということは、どういうことか。環境との関係が良好であることが、そのひとつの要件で、つまりフツーではないビョーキな環境に適応するためには「依存症」という仕組みが必要なんじゃないか、と。
 
たとえば、毎日の勉強というものの前提には、到達すべき目標とか偏差値とか、そういうものがあって、それは自分が所属している社会システムが提示してくるもので、ということは、その社会システムから飛び出してしまえば「毎日の勉強」は不要となる。とすると、依存する必要もない。ならば、それは実は「依存」とか「依存症」だったのではないか。
 
そのように考えると、「依存」とか「依存症」というのは、社会システムの中で生き延びていくために必要なある種の仕組みとか装置とか道具立てのひとつとしてあるのではないか、と。
 
◇ ◇
 
たとえば、アルコールは発がん性物質らしいし、タバコのタールは発がん性物質だ。そのどちらも日本国内では公然と売られていて、そこにかけられる税金は国税地方税あわせて年間3兆4千億円くらいになるらしい。ちなみにユニクロの連結決算が2兆円を超えるとか何とかでニュースになる規模らしいです。
 
国民がビョーキになるものを公然と売って税金で3兆円以上も稼ぎまくっているくらいなら、酒もタバコも国内販売なんかやめちゃえばいいのに。そうすればもっと健康に、たくさんの人がより良く暮らせるんじゃないかなとは思うわけだが、それをやらないのは国や自治体が3兆円に「依存」しているからだ。
 
◇ ◇
 
そのように考えてくると、「依存」とか「依存性」というのは、人間の世界が発達とか発展とか進化とかしていくと、それに合わせて段々とややこしくなってくるのではないか。一概に「◯◯依存症」と指弾するのが難しくなっているんじゃないかと思うのだ。
 
たぶん、「自分が依存症である状態に依存する依存症」のような、本当にややこしい状態というものがあるんじゃないかな。それは“人格”とか“進化”というものに最初から組み込まれているんじゃないかな。そして、その仕組みが普段はおとなしくしていると気づかないけど、何かの折にプツプツとオデキのように現われて「あっ! ○○依存症だ」とか言われているんじゃないだろうか。
 
人類に組み込まれたある種の必要不可欠な装置として「依存」とか「依存性」に人類は「依存」しているんじゃないだろうか。環境の変化にともなって、それがプツプツと現れているとしたら、自分自身の中にも何かとんでもない「依存性」が隠れていて、フツーではなくなった社会に適応するために、ある日、ビョーキにならざるを得ないのかもしれない。