四季一筆

徒然に。

皐月十一日、“滑らない”投資

うちでは、物が落ちたり倒れたり壊れたり、そしてそんなろくでもないことが立て続けに起きたときには「落ち神(おちがみ)さんがいらした」と言っている。本当にそんな神様がおわすのかどうかは知らないけど、息子が小さいときには「ほら、落ち神さんがいらしてるから、気をつけて」と注意をうながす時の“警戒キャラ”として登場してもらっている。
 
その落ち神さんは、息子が思春期を迎えた今でも健在で、ときどき家の中に陣取ったり、外出先で出遭ったりしている。
 
きょうは買物先のスーパーで出遭い、一撃を喰らった。惣菜を床にぶちまけたのだ。
 
◇ ◇
 
会計を終えて、品物を袋に入れている時、見事に惣菜のパックを床に落とし、パックの蓋が開き、中身が床に散らばった。
 
このような失敗は、幼稚園以来だ。まだ、5歳の頃、母親にお遣いを言い渡された私は、大きなステンレスのボールとお金を持って、子どもの足で歩いて5分ほどの、坂道の途中にある豆腐屋にやらされた。そこで豆腐を一丁買う。
 
当時は密閉パックに入った豆腐ではなくて、豆腐屋で大きな水槽に泳いでいる豆腐を、豆腐屋のおっちゃんが大きな手ですくい取って持参のボウルに入れてくれた。そのままでは豆腐が崩れるので一緒に水もボウルに入れてくれる。最近のスーパーで売っているような小さな豆腐ではない。
 
豆腐と、水と、相当な重さ。
 
水の中で豆腐が泳いでいる重たいステンレスのボウルを持った私は、家に帰る途中の中ほどで、見事にボウルを道端のブロック塀の根元にぶちまけたのだった。重たくて、ボウルを持ち直そうとして落としたのだと思う。
 
泣きながら、こぼれてボロボロに飛び散った豆腐を拾い集め、くっついた砂利と一緒にボウルに入れ、泣きながら家まで帰った。腰から下はびしょ濡れだった。
 
◇ ◇
 
スーパーの荷物台の下に惣菜をぶちまけた私は、とっさに、床に散らばったおかずを、蓋が開いてしまったパックに手で集め戻していた。半世紀前の記憶の再現だ。隣に座っていた夫の頭が撃ち抜かれ、飛び散った脳漿に手を伸ばしたジャクリーンも、もしかしたら同じ気持ちだったのかも……いや、わからない。
 
◇ ◇
 
結局、お店の好意で新品と取り替えてもらって一件落着だった。本当にありがたい。近くでレジ打ちをしていたベテラン店員さんからの連携で、もしかしたら私の息子と言ってもいいくらいの若い店員さんが素早くやってきて対応してくれた。
 
ああ、こういうところに店員の意思疎通の良さがあらわれるんだなぁ……とか、ああ、雑損失を出してしまった、申し訳ない、とか考えながら店を出た。ともあれ、本当にありがとうございます。
 
◇ ◇
 
外出時には指先が滑るので、ヤマト糊の「ノンスリップ」という滑り止めクリームを持ち歩いている。これをつけておくと、加齢による指先の乾燥でレジ袋が開けられない――という事態を避けられる。
 
今日もつけていたのだけど左手指だけで、右手指にはつけていなかった。そして、惣菜のパックを床に落としたのは、右手でパックを持ち上げたときだった。
 
◇ ◇
 
この数年、手指から潤いがなくなっているのは加齢によると自分でわかっている。仕事がら、資料や本といった紙類を取り扱う時、紙やページをめくることができなくて困る。ほとんど「摩擦係数=ゼロ」という状態で、とにかく困る。
 
なので、滑り止めクリームを使うようになった。指サックは指先が痛くなるし、使わないときになくなるし、よごれがついて汚くなるから好きではない。クリームなら洗い流せる。
 
きょうも滑り止めクリームを持っていたのだけど、うっかりつけ忘れていた右手から取り落としてしまった。
 
◇ ◇
 
指先が滑るようになったのと同時期に、冬季のアカギレがひどくなった。手指の関節の外側に、血が滲み出すようなひどいアカギレが続けざまにできる。これには防水フィルムタイプの絆創膏を使うのだけど、最近は小さなサイズがネットで買えるので助かっている。
 
実はこのフィルム絆創膏、指の腹に貼り付けると滑り止めとしても使える。
 
◇ ◇
 
きょうの落ち神さんは強力で参ったけれども、こうやって、指先が滑る年寄りが今後増えていくと、“指先の滑り止め産業”のようなものが興隆するんじゃないかと思えてきた。そのうち誰もが滑り止め製品を使ったり持ち歩いたりするようになるんじゃないかな。
 
そういうものを作っているメーカーの株を買うのは、けっこう確実な投資なんじゃないかと思い始めている。“滑らない”だけに。