四季一筆

徒然に。

卯月二十五日、いたむ

新聞に鷲田清一氏が「国民への試練」と結論している文章があるが、そのなかで次の部分で、なるほどなぁ、と思った。
 

激痛は人を「いま」という瞬間に閉じ込める、つまり人から未来と過去を奪うからではないでしょうか
東京新聞 2018年4月20日 夕刊)
 
そうして鷲田氏は、人の感覚の連続性、意識の力動、その力動の前提となる連続性と、現代はその連続性が壊れているので攻撃性が個々人レベルで発動されてしまいヘイトとしかなり得ない――という具合に論を進めている(と思う。たぶん)。
 
まあ、デモクラシーに関してはすっかり骨抜きになっている私だから、憎悪とか怒りというものについては別に考えるとして、「いたみ」というやつで思ったことがある。
 
◇ ◇
 
日本語の「いたみ」には
・傷み
・痛み
・悼み
のようにあるわけだが、いずれも何かが本来の期待される状態から、望まれない状態に変化している。果物が傷み、腕が痛むし、心が痛んで、亡くなった人を悼む。いずれも「いた・み」とか「いた・む」という具合。
 
ボールが頭に当たって「痛い!」というのも「いた・い」だし、語幹の「いた」は共通なんだなぁ、と。これが英語だったら、痛いのは「pain」とか「ache」や「sore」だし、「傷む」のは「damage」だ。ボールが頭に当たって「痛い!」は「Ouch!」だ。「Pain!」ではない。
 
日本語の「いた・み」「いた・む」には、煩わしい対象となり得る=観察可能な現象としての「痛み(pain)」ではなくて、「いたんでしまったもの・こと」への寄り添いがあるように感じるんだけど、気のせいかな。
 
◇ ◇
 
だから、自分の頭にボールが当たったり、電車に乗ろうとしたらお腹が痛くなったり、指先をぶつけて爪が折れて血が出たりすると、私たちは痛いところに手を当てて押さえ、うずくまって「痛い痛い痛い痛い……」と声にならない悲鳴をささやくことになる。意識は痛みの一点に集中して、時間の流れはそこで分断され、痛みの瞬間が永遠に引き伸ばされる。その時の口の形は「い」と歯を食いしばる形だ。
 
痛みを抱え込むようにして、背中をまるめて、ひたすら痛みと対峙する。なるほどなぁ。「『いま』という瞬間に閉じ込め」られちゃうわけだ。「いた・い」は痛みと寄り添ってしまうから、そこにうずくまるしかない。
 
◇ ◇
 
ところで、日本語以外ではどうなんだろうか。やっぱり「閉じ込め」られちゃうのだろうけど、その辺の構造というのは、日本語の「いた・い」とは異なっているのだろうか。寄り添うものではなくて、やっつける対象としての pain なんだろうか。