四季一筆

徒然に。

卯月二十四日、ふたつの読書

このところ本を読まなくなったなぁ、と思う。「このところ」というのは、ここ十年くらいだけど。
 
仕事で必要な解説書とかは読まないと話にならないから読むけれども、教養的といえそうな本では、「それ、読んでどうするよ?」の自問自答に粉砕されてしまう割合がワタクシ的に増えてきている。
 
なぜなんだろう、自分は読書に何を求めているんだろう、と思う。
 
◇ ◇
 
若い時、といっても中高生の頃だけど、貪るようにSFを読んでいた。最初が早川の新書版で、それから文庫に移り、東京創元とかサンリオとかのSFをとっかかりにSF以外の分野に範囲が広がっていった。
 
あの頃は、きっとポッカリと自分の中に空いた穴を埋めようとして、手当たり次第に色んなものを放り込んでいたんだと思う。玉石混交というよりも、産業廃棄物か建設残土のようなものが多かったと思う。
 
いまは小学校五年生の息子がガブガブと水を飲むように「○ばさ文庫」だとか「○A! ×NTERTAINMEMT」や「○プラ文庫」を読んでいるけど、きっとその感覚に近いのだろう。(別にこれらの叢書が悪いと言っているのではない。それを言い出したら「ハヤカワ文庫」も「岩波文庫」もダメだということになる。けれどもそれは無い)
 
◇ ◇
 
大学では図書館を自由に使えることをいいことに、興味関心のおもむくままに書架の間を漂っていった。講義に出るより図書館の書架の間をうろついていた。
 
会社で仕事をするようになったら、通勤の往復を埋めるための本と、仕事に直接関わる本を専ら読んでいた。でもやはり、学生時代と同じように、自分にポッカリと空いた穴を埋めるものを探していた気がする。
 
栄養が足りないんだから、たっぷり食べなきゃ、て感じだったろうか。
 
◇ ◇
 
四十代になって気づいたのは、ああ、「役に立つ本」なんて無いんだな、ということだった。ある日、唐突に気がついた。無いんだよ、本当に。穴を埋めるために、どんなに本を読んだところで、その穴は埋まらない。
 
相変わらず今でも本を買うけど、積ん読のほうが多くなってしまって、これはこれで物理的に困ったことだ。しかし、そうやって買う本は「読みたい」と思って買っているわけで、結果としては無駄にはなっていなんだろうと思う。
 
◇ ◇
 
自宅の書架や棚の上に積んである本をときどき手にしたり、並べ替えたり、ちょっとだけページをめくったりしている。最近気づいたのは、一冊丸ごと全部読まなくても、パラパラとめくっていると、ふいに目につく言葉や一文を発見するということ。そこから色々な想念が回り始める。
 
ああ、そうか。今の自分にとって本というのは、ポッカリと空いた穴の中に放り込む点では同じだけど、それによって穴を埋めようとしているわけではないのか。見つけたものを穴の中に放り込んで、そこから聞こえるかもしれない音に耳を澄ましているのか、と、この年になってようやく気づいた。
 
◇ ◇
 
河原や海岸で綺麗な小石をみつけるように、本で何かいいものを見つけたら、ひとつだけでいいから自分の穴の中に放り込んでみる。何が聞こえるだろう。何も聞こえないかもしれない。でも、取り敢えずあわてないで、しばらく耳を澄ましてみる。
 
そんな具合にしょぼしょぼと本を読んでいます。でも、綺麗な小石は幾らあっても構わないから、やっぱり物理的に困ったことになるんだけどね。