四季一筆

徒然に。

卯月六日、質問の臨界量

「名札入れが壊れているものは、新年度までに新しいケースを用意してください」
 
きょうは小学校の始業式で、もちろん前日に持ち物は揃えてランドセルに入れて準備万端。新年度の最初の日なんだから、忘れ物や遅刻なんてご法度だ、と。まあ、大丈夫だろうと思っていたのだ。
 
昨年度末、つまり3月の修了式のときに成績通知表と一緒にもらってきた新年度の予定と持ち物リストのプリントには、名前が消えかけていたら書き直しておけとか、文具で足りないものがあるなら補充しておけとか、いろいろと注意書きが細かく書いてある。その中に「壊れた名札は新しいものに換えておけ」というのもあった。
 
◇ ◇
 
名札入れの軟質ビニルっぽいケースは、半世紀前と形が殆ど同じで、安全ピンで服の胸に取り付けることになっている。半世紀前と違うのは、生徒個人の名前が不特定者に知られないように、下校前にははずして教室内に保管するというところ。だから、普段の名札がどのような状態になっているのはわからない。基本、家に戻ってくることがないからだ。
 
ただし、春休みには年度が終わって、学校のすべての持ち物が家に戻ってくる。新年度になれば教室が移動するし、クラス替えがあったりして学校内での生徒の居場所が変わるからだ。
 
◇ ◇
 
よーし、準備を始めるぞ。そこに並べてけ。まず最初に筆入れ。名前ペンを入れてあるか? 「あるよ」。上履き。「オーケー」。防災頭巾。「大丈夫」。連絡帳と連絡帳袋。「あるよ」。名札……、名札は壊れてないな? 「うん、だいじょうぶ」。
 
そんな具合に始業式の日の持ち物を並べて準備したのに、今朝になってカミサンが「そういえば、名札、セロテープ貼って修理してたよね。壊れてるよね」と言い出した。え? 壊れてるの? 「新しいの無いから、取り敢えず壊れたので行って」。いやいやいや、ストック、あるから。買ってあるから。
 
ということで、しまってあった新しい名札ケースを渡したのだが、引き換えに手渡された古いケースを見ると、確かに、安全ピンの取り付け部分の根元が切れていて、セロテープで下手くそに応急手当してある。
 
壊れてるじゃん。いつから? 「しらん」
 
◇ ◇
 
「壊れている」という状態がどのようなものであるのか、ということを、もしかして一つ一つの物品について定義してやらないといけないのかな、理解できないのかな、と、不安になる。
 
そういえば、名札ケースをいつも付けているであろう胸元の辺り、生地に二カ所の小さな孔が空いているシャツがある。どうせ名札を付けてればこうなるさ、というカミサン・ジャッジでそのままなんだけど、このあいだは、横を一緒に歩いていた息子の、シャツの袖口に小さな孔がいくつも空いているのに気づいた。おいおい、こんなところに名札はつけないだろ。何で空いたの? 「知らない」。いつから空いてるの「ずっと」。……。
 
ウチ、お金持ちじゃないけど、それほど貧乏でもないんだけどなぁ。
 
◇ ◇
 
いや、それ以前に、壊れているとか不具合だとか修理や補修が必要だ、交換しなければ、普通ではないから親に訊くべきかも――という具合に、問題意識を持ってくれないのかなぁ、どうかなぁ、と。もしかしたら、これは応用力の問題なのかもしれないと思い始めた。
 
私自身、小学生の頃には両親から「ったく、応用の利かない!」となじられてばかりいたけれども、それと同じ状況が息子にも起きているのではないかと考えた。応用が利くというのは、ある一般化された原理原則を、目の前の現実の状況の当てはめて、その状況に何らかの有効な働きかけが出来るということなんだろうと、ワタクシ的には思うわけです。
 
◇ ◇
 
応用を利かせるときには、まず一般化されたルールを知っていて、次に、それをどのように現実に適用するのか、そのための適用ルールのようなもの、言ってみればメタルールのようなものが必要になるんだけど、それが形作られていないと「応用の利かない!」ということになる。では、どうしたらそのようなメタルールを作ることが出来るのかというと、もうこれは、場数を踏むしか無いんじゃない? としか私は言えないのだけど、どうだろう。
 
ただし、簡単に場数を踏むとは云うけれども、場数を踏むためのきっかけのようなものが必要で、たとえば塾の算数なんてのはひたすら似たような練習問題を解くことで、意図的に場数をたくさん踏ませる。そうやって、教室で教わった「○○算」のようなルールを適用する経験=練習問題を積み上げていき、たぶんそのことが子どもの脳内にメタルールのような何かを形成させるきっかけになっているんじゃないかな。
 
けれども、日常生活での“練習問題”なんてやってくるものではない。
 
◇ ◇
 
大人にとっては「毎日が試験」とか「常に本番」という意識感覚があるから、あらゆるところが学びの場になるけれども、まだまだメタルールの出来ていない子どもにとっては、目の前に広がる現実なんて、外連味があるか無いかというただ刺激の発生源に過ぎなくて、そこから何かを学び取るための問題意識は生まれていないほうが多いんじゃないかな。どうなんだろう。それともウチの子がおさな過ぎるのか。
 
ともかく、漫然と毎日を過ごしているだけでは、問題意識なんて発動されないから、そこには学びも“場数”という練習問題も期待できなくて、じゃあ、どうすればいいんだ、と考えてみて思い至ったのが、“親の質問”ということだった。
 
◇ ◇
 
親が、子どもに向けて発する質問が、ある一定量を超えると、子どもの場数が一種の臨界量のようなものを超して、自分で問題意識を抱いたり、応用の適用方法が感覚的に理解できるようになるんじゃないか、と。
 
だから、親は子どもに向けて指示をしたり、何もかも用意をしてやるのではなくて、質問によって子どもの「どうしてかな」という意識を刺激し続けてやることが大切なんじゃないかな。その刺激が臨界量を超えれば、あとは子どもの中で何かが点火して、子ども自身が自走し始めるんじゃないかと。
 
とまあ、5年生の始業式の朝、息子を送り出してから、そんな具合に思い至ったわけです。
 
でも、実際のところ、どうなんだろね?