四季一筆

徒然に。

弥生二十九日、不自由という信頼

いまは既に修了式は終わって春休みだが、まだ三学期も半ば頃のこと、小学校で出された調べ学習でネットで検索しろとか、Wikipediaを使えとか指示されたと息子が言って、だから家のパソコンで調べるんだ、と。
 
調べ物といえば、まずは紙の参考図書だろうと思うのだけど、今では、どこの馬の骨ともわからないやつが書いた与太話かもしれないものを無条件で“答え”として使うんだよとか学校で教えていて、日本は大丈夫なんだろうか……て、全然大丈夫だと思えないんですけど。それとも息子の勘違いなのかな。
 
自分でテーマを決めて、調べて、それを作文に書いて発表しなさい――という課題に、息子はあるゲームについてウィキペディアで調べて、その概要を丸写しにして提出していた。しかも、一晩で書いてきなさいとか、ちょっと無理でしょ、それ。親が指導しようにも、時間的に不可能だったので放置しておいたけど……。
 
◇ ◇
 
その情報が信頼に足るものであるのかどうか、それは、その情報が流通するまでに数々の関門があって、その関門すべてを無事に通り抜けてきたかどうかということが重要なのだ。
 
それは、複数のきちんとした査読者によるチェックが入っているとか、“きちんとした査読者”をまかなうことの出来るきちんとした組織が基盤として存在しているとか、そもそも紙に印刷して製本するという手間暇をかけてでも出版・発行されているかどうかという物理的な不自由さも、信頼性の関門として機能している。
 
もちろん、その雑誌(学術雑誌)なり出版者(出版社)なりの信頼性が、これまでの名声や信用で担保されているというのも重要。
 
◇ ◇
 
その辺のことを全部すっとばして、子どもに先ずネットで検索しろというのは乱暴な話だなぁ、とは思うのだ。自分の頭で正しい理屈を使って考えることが出来ないうちは、楽しいとか面白いとか動いた鳴ったの外連味だけで何とかなってたかもしれないけど、来週には高学年なんだもん、そろそろしっかりとした裏付けとか理屈とかを使う大切さ、そして疑うことの重要性を教えないといけないんだろうなぁ、と思う年度末なわけです。
 
ちょっと遅いかもしれないけど、“幼年期の終わり”てやつ? きっと、面倒臭がるンだろうなぁ。