四季一筆

徒然に。

弥生二十一日、問いを立てる

寒くて、あまりにも寒いので、F中市のお寺から戻ってきて、台所でネギラーメンを作って一人で食べた。カミサンも息子も要らないらしい。春のお彼岸の法要のあとで、K分寺の駅ビルで食べたお上品なミートソース・スパゲティだけでは足りなかった。そして、何よりも寒かった。
 
長ネギを2分の一本、細く刻んで熱々の醤油ラーメンの上に盛りつけて食べた。ラー油をひと垂らし。からだが温まる。ふだんは“麺喰い”の息子は、ネギが苦手。いっぽうの私は子どもの頃から生の長ネギが好物だ。ネギを忌避した息子は近寄ることもなく、おかげで落ち着いて食べることができた。
 
◇ ◇
 
法要が始まる前から雪が降り始めた。東京郊外の田舎だからというわけでもなく、帰宅してみたら地元でも降っていた。ただし、やはり郊外の方が積雪量が多いように思えた。ワイパーでよけた雪が、フロント・ウインドウの縁に白くもり上がって走っている車が何台もいたから。
 
電車の中から見える畑は、一面に白かった。
 
家に帰り着いて、玄関の鍵を回し、暖かい室内にほっとする。トイレが一番暖かい。暖房が常に入っているからだ。
 
◇ ◇
 
きょうの講話はM師。人生は旅だ。目的地があり、現在地があり、道が定まり、道連れが必要だ――のようなお話。何を頼りにされてますか、おカネですか、家族ですか、健康ですか、と。
 
ことばを頼りにしているかなぁ、とか、お話を聞きながら私はぼんやり考えていた。
 
◇ ◇
 
自分が自分自身に向けて発する言葉を頼りにしているかも。自分が何を語るかということ。そのために、何を私自身に問いかけるのかということ、そこを頼りにしているだろうか。
 
問いを立てるのは難しいことで、文字通り真っ直ぐに立ててしまうと、立てた問い自体が一種のドグマとなる。(いま流行りの)“忖度”を要求するようになる。かといって、傾けすぎると倒れてしまう。倒れてしまってゴミになり、つっかい棒にすらならない。
 
適切な問いを立てることができると、問題は既に解決したも同然なのだが。そのとき、問題は課題となり、不安は心配となる。