四季一筆

徒然に。

弥生十六日、学ぶ

学ぶとは真似ることだそうで、真似るためには対象をよく観察しないといけない。
 
観察というのは漫然と眺めやっているのではなくて、何が同じ、何が違う、を意識すること、識別することが基本となる。識別の物差しが、ときには時間だったり(アサガオの観察)、ときには場所(近所の商店街の社会科見学)だったりするわけだが、そのときに必要になってくるのが算数なんだな、と息子が運動靴のかかとを踏んで履いているのに気づいて、思った。
 
◇ ◇
 
小学校の算数とは、個別具体には整数の四則演算や九九、分数に小数に平面図形や立体図形、三角形や円なんてものがあるわけだけど、そういう単元個別の話ではなくて、「小学校の算数」というものが何を目指しているのかというと、ふたつに集約されるんじゃないかと。
 
(A) 同じものをまとめる。
(B) まとめるための基準を見つける。
 
もう、ただこのふたつの感覚を身につける、そのことが小学校の算数なんだな、と思うわけです。これらは同時に次のようなことも自ずと内包している。
 
(A') 違うものを区別する。
(B') 基準を自分で作り出す。
 
違うものを識別して選り分けることで同じものが集まってくるし、同じものを集めると数えやすくなる=計算がしやすくなる。計算の基準として、単位を定め、分母をそろえ、図形の補助線を引く。
 
そういう算数的なモノの感じ方、見方を身につけると観察が可能になるんだなぁ、と。そのためには、算数的な感じ方を身につける=練習問題をこなす時間が大量に必要になるし、観察するためには対象に向き合う時間が、やっぱり大量に必要になる。
 
◇ ◇
 
この頃、息子が履いている運動靴のカカトが見事に折れて踏まれて潰れていて、そのきっちりと折られた“美しさ”のようなものに感心するわけですが、「カカトを踏むと貧乏になる」というように、好ましいことではない。
 
訊ねてみると果たして、運動靴を履くときにマジックテープを剥がすのが面倒くさいので、そのままカカトを踏んでつっかけるようにしているとのこと。
 
危ない、姿勢が悪くなる、靴がダメになる、だからカカトを踏むなと厳命したのだが、訊くと他にも何人か、同様にして履いている子がいるらしい。
 
そういう子達の姿を見て姿勢が悪くなっているとか、カッコ悪く見えるとか、だらしなく見えるとか感じないのだろうか。そして、ああ、息子は観察力がいまいちだもんなぁ、と思い至ったのだった。算数、苦手だし。
 


大辞林 第三版の解説
まなぶ【学ぶ】
 
( 動バ五[四] )
〔「まねぶ(学)」と同源〕
(1) 教えを受けて知識や技芸を身につける。 「大学で経済学を−・ぶ」 「遠近法を−・ぶ」
(2) 勉強する。学問をする。 「よく−・びよく遊べ」
(3) 経験を通して知識や知恵を得る。わかる。 「人生の何たるかを−・ぶ」 「この事件から−・んだこと」
(4) まねる。 「一天四海の人皆是を−・ぶ/平家 1」 → 習う(補説欄)
[可能] まなべる

( 動バ上二 )

に同じ。 「出家して仏道に入りて法を−・びよ/今昔 2」
[句項目] 学びて思わざれば則ち罔し ・ 学んで時にこれを習う亦説ばしからずや
 
まねぶ【学ぶ】
( 動バ四 )
〔「まなぶ(学)」と同源〕
(1) まねする。まねて言う。 「人の言ふらむことを−・ぶらむよ/枕草子 41」
(2) 見聞きしたことをそのまま人に語る。 「さまざま−・び尽くしがたし/増鏡 あすか川」
(3) 学問・技芸などを習得する。 「文才を−・ぶにも/源氏 乙女」