四季一筆

徒然に。

如月晦日、お花畑に春の嵐

基本的に「民主主義」というやつは上手くいかないものなんじゃないか、と最近思い始めている。かといって私自身、民主主義と言われているものを完全に理解しているわけでもないし、民主主義と言われているもの自体が完全に理解できるものなのかどうかもわからない。
 
けれども、学校で教わってきたり巷で言われている「民主主義」というのは、何だか胡散臭いのだ。かといって、独裁制だとか寡頭制だとかが良いとも断言できない。ああ、でも、結局のところ、代議員制+官僚制=寡頭制なんじゃないかな。
 
◇ ◇
 
人は認知コストを節約することを選ぶ。何故かというと、生き残るためのマージン=余力が常に必要だから。だから、蓄財し、肥満する。エステやジムに通う。できるだけアウトソースして、自分が必要だと信じているものについては分厚く、それ以外についての心身的負担を軽くしようとする。つまり、認知コストの節約だ。そうやって、自分が信じる「余力」を貯め込んでいく。
 
別に、悪いことではない。そうやって金融資本となり、学力が向上し、健康志向が強まる。
 
◇ ◇
 
けれども、認知コストを節約する途中で、「あ〜、これメンドいなぁ」と手抜きとかサボりとかやり始める。もしくは、「あ〜、コレほしいなぁ」と自分の欲望のままあれこれ主張したり手を出したりし始める。
 
みんなで平等に人権に配慮して仲良く決めましょう――なんて、メンドいよね、と思い始めた瞬間に「民主主義」とかは腐り始める。そして、人は認知コストを節約する生き物だから(というか、生物はみんなそうなんだろうと思う)、「民主主義」なんてたちまちお題目だけで、中身が腐って空洞化してしまう危険性がある。
 
「衆愚」という言葉の誕生だ。
 
◇ ◇
 
メンドいことは誰かに肩代わりさせたいし、やりたい人にやらせればぁ? てことで、官僚制というニーズが出てくる。誰か決めてよぉ、てことで代議制が登場する。まあ、あれこれ個人は自身の日常生活を安全安心(と信じられるの)であれば満足だから、そのへんはよろしくね、てことで、そういう人達にお任せすることを選ぶ。寡頭制となる。
 
乱暴な論法だけど、こうやって寡頭制となってみると、寡頭部分を押さえれば、その下にぶらさがっている「大衆」を一網打尽にするのは簡単そうに思われてくる。そして、人々の判断基準が“個人”とか“家庭”とか“地域”なんて些細で多様に過ぎるではなくて、お上の決めた善悪基準となるから、全国的に話が簡単になる。簡単だとわかりやすい。考える必要もない。
 
何しろ全国一律の基準=プラットフォームとなるわけで、つまりパイがデカいから得られるものもでかくなるわけで。その基準に乗っている限り、1億人を味方にできるわけよ。
 
色々いいことが起きそうだなぁ、て期待したくなる気分もわかる。何しろ余計なこと考えなくてイイから。
 
うん、その気持ちはわかるよ。わかるけど、「衆愚」ならぬ、いってみれば「頭愚」であったときどうするの。そもそもその「頭愚」状態をどうやって知るの、て思うんだけど、メンドいから誰か考えて〜、てなってないかい?