四季一筆

徒然に。

如月十三日、自助努力という呪い

自分のことは自分でとかの自助努力というものが一種の呪いのようにまとわりついて、他人に助けを求めることが出来ないのかもしれない、と思うことがある。
 
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どういうわけか幼稚園の頃から部屋には「日本百科大事典」とかあって、枕元に並んだその箱の背表紙で「あいた、いちおえ、おおかて、かときよ、きらこお、こかして、しとしん、すたいこ、たいさてる、てれにも、にやふせ、ふそむか、むきわん」なんて呪文を憶えた。
 
小学校に上がる頃には、わからないことがあると「自分で調べろ」と親から言われ、以来、手元にいつも辞書辞典がある人生なんだけど、頭が良くなるわけでもないし、博識なわけでもないし、ましてやカネ儲けできるわけでもないし、どちらかというとヒトサマよりも劣った人間なんだろうなと思う。
 
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何よりも驚くのは、学校や職場で多くの人がいとも簡単に、周囲の人間に助けを求めているという景色。いや、それ、先ず自分でやれよ、とか若いころは思っていたんだけど、自分よりも優れた人にやってもらうほうがずっと合理的だよな。だから専門職というのがあるわけだし。
 
けれども、小さな子どもの頃から何でもかんでも「とにかく自分でやれ」とか「自分でなんとかしろ」なんて言われ続けて大人になった人には、他人にお願いするとか助けを求めるというのはつらいんだよね。人に助けてもらう=自分は能無し、てことだから。理屈ではわかっていても、価値観は匂いのように脳幹に染みついているから。
 
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結局、そこそこにアレコレ出来てしまうので、大人になってからは器用貧乏てやつになって、大成できないのかな、とも思う。人に、特に先輩や年配者に助けを求めて上手に甘えることが出来ると、「だめなやつほどカワイイ」てやつか上長の覚え目出度く引き上げられたりして。
 
最近の“内部告発”とか“不正発覚”というやつ、実は、そんな言ってみれば「仲間意識」というか「なあなあの仲」というか、甘える仕組みが働かなくなって、いきなりドカンと破裂しているというのもあるのかなぁ、どうかなぁ。
 
無理して無茶なことをやって、最後の最後に助けてもらって、「自己責任だろ」とか指弾されるケースも、そんなところがあるんじゃないかなと思った。能無しになるのは嫌だから、自分でハードル上げちゃったのはイイけど、自分でどうしようもなくなっちゃったとか。
 
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まあ、こうやって自分の至らなさを生育歴の所為にするとラクなんだけどね。でも、やっぱり卑怯かな。自分で何とかしなきゃ…… あ……