四季一筆

徒然に。

如月九日、交換可能な自分

2009年イギリス映画「月に囚われた男」(サム・ロックウェル主演、ダンカン・ジョーンズ監督)を見たけど、もういい加減、色んなところで紹介されているから内容について書いても構わないだろうと。
 
◇ ◇
 
僻地での任務についている人工的な人格あるもの、たとえば本作では地球在住の人物のクローンで、ニセの記憶が移植されているのでクローン本人は自分の正体を知らないという設定になっている。
 
僻地任務で稼働期限が切られているのは「ブレードランナー」のレプリカントと同じだし、ニセの記憶が移植されているというところもレプリカントや「トータル・リコール」とか「ダークシティ」や「マトリックス」のようでもある。
 
人は記憶を縁(よすが)として生きるものとして、その記憶が移植可能=複製可能であるとしたら、何を頼りにすればいいのだろうか。この辺は「攻殻機動隊」でも語られていることなんだけど。だから、記憶やそれにまつわる事象が、人が持っている、生まれた場所や育ったところから離れがたい性向の強力な根拠となる。
 
「いやなら他所へ引っ越せばいいじゃん」が成立しないのだよ。
 
◇ ◇
 
人の体は部位にもよるけど、ゆっくりと細胞が入れ替わっていて、何年か経つとすっかり別の存在としてそこにあるといえるのだろうけど、でも同一性をもって一人の人間として持続していると自分自身で思っているし、周りの人間もそのように認識している。だから、身分証明証とかが成立する。
 
この細胞の交代では、脳細胞も入れ替わっているのだそうで、だとしたら細胞という物質に自分の縁を求めることは出来ないじゃん。とすると、自分が自分であるということは電気信号による記憶とか概念というものによって維持されているのかな、とも思うわけだ。
 
◇ ◇
 
ある日、目醒めたら、自分はまるっきりの新品で、でも記憶もなくて、「君は事故にあったんだよ。だから記憶に一部混乱があるようだね」なんて説明されて、はあ、そおっすか、なんて生返事をするんだけど、イマイチあやふやで、徐々になんか変だと思い始めて、ある時、決定的に自分が交換可能な存在なんだと気付かされるとする。
 
自分みたいなのがいくつも、何十、何百と用意されていて、必要になったら解凍されてハイ、ボナペティ! なんてものだとしたら、どうなんだろ。記憶は一切が移植でニセモノで、自分の縁が信じられないとして。
 
◇ ◇
 
手術の全身麻酔は、まず音がモサモサとして聞こえなくなった。次に視界がすっと暗くなり、次に目を開けると8時間の手術が終わっていた――という経験があるんだけど、その「暗くなり、次に目を」の「、」の瞬間に自分が交換されていたとしたらどうなんだろ。記憶は移植で、というか、毎晩寝ている間に自分が交換されていたら……なんて考えると、寝るのが怖くなる。
 
いろんなものが使い捨て可能で、交換可能、返品可能、スタッフも派遣さんとかアルバイト君で交換可能、人間関係も職場やサークルを変えれば交換可能、結婚しないから持続的に自分を証明する子どもという存在も無い。
 
そんな具合にやってくると、もしかして自分も交換可能なんじゃないかとか思い始めて、夜ねるのが怖くなるとか、ないのかな。寝ている間に自分は交換されてしまって、いや、そもそも今こんなことを考えている自分自身が、この24時間以内に交換されてここにいるんじゃないか、とか。
 
月に囚われた男」、おすすめです。