四季一筆

徒然に。

如月五日、昔語り

小4の息子が、郵便番号がよくわからないという話から、郵便マーク(正しくは郵便記号)の「〒」は、その昔、郵便をお役所が配達していた頃の逓信省のテから来たんだとか(諸説あり)、電話も昔は電電公社という“お役所”がやっていんたんだよとか、JRとかJALも国がやっていた“お役所”のような会社だったんだとか、ぽかんとした顔に向かってそんな話をしていて、あれ? これって、私の両親と同じじゃないか、って気づいた。
 
両親の場合は、戦時中の配給とか防空壕とかスイトンとかサツマイモとか空襲警報とか機銃掃射の話であって、何度も繰り返し聞かされたけれども、こちらは経験していないから、体験者が目の前で話していてもまるで別世界の話だし、話している当人にしてみれば「そんなことも知らないのか」という異星人を見るような気持ちで話していたに違いない。
 
だから、いくら息子に、むかしの電話はダイヤルといってボタンを押すのではなくて、指先を入れる孔の空いた円盤を回していたんだとか言ったところで、理解できるわけないのだ。そもそも、携帯電話のない世界なんてものを信じられないだろう。
 
◇ ◇
 
塾の国語の問題で、漢字の読みを問うものがある。そのなかで、
「これはご利益のあるお守りです」
のような文があり、「ご利益」の読みを問うていた。「ごりやく」である。そして、この問題の正答率が4割ちょっと。半分以上の小4生が読めない。もちろん、うちの息子も間違えましたとも。「ごりえき」て。
 
まあ、日頃からまともに漢字の復習とか練習問題とかやっていれば正解できる問題なんだろうけど、日常生活での「ごりやく」という場面が激減しているのも低い正答率の理由としてあるのかな、と。
 
◇ ◇
 
むかしは、親や祖父母が寺社仏閣に参拝するなんてのは普通の光景で、そういうのにくっついていったり、連れられていったり、いただいてきた御札とか御守とかが身の回りにあって、「これはご利益があるから」みたいな会話が普通にあったと思う。ランドセルの横に、御守の袋がぶら下がっているとか当たり前の景色だった。
 
そういう昔の当たり前がすっかり希薄になってしまって、「ごりやく」という言葉だけが残ってしまっているのかなぁ、と。
 
息子と話していると、ときどき「こんなことも知らないのか!?」とビックリすることがあるけど、それは我が家の日常生活がやせ細っているというか、むかしとは違う異世界化しつつあるのが原因なのだろうと思ったりする。
 
◇ ◇
 
中学受験の傾向をひとから聞いたりすると、実生活での色々な体験に基づく問題がよく出されたりするらしい。だから、塾の理科の問題にフキノトウはどれですかとか、モンシロチョウとアゲハのサナギはどれですかとか出題される。
 
でも、日常生活では家を出てから学校の校門を入るまで土なんて見ることがなかったり、学校の中ですら全面舗装とか人工芝とかで、土の地面なんて隅っこの方のじめじめとした暗い狭いところにしかなかったりするし、親は親で毎日の仕事で汲々でゆとりがまるっきり無くて、たまの休みに自分の故郷に子連れで帰ってみれば、かつて遊んだ小川には油の膜が漂い、岸辺には雑草が繁茂して蜘蛛の巣がやたらと張っているといった具体で、わさび田の水を手で汲んで飲むとか、フキノトウとかノビルとかヨモギとかムカゴとか道端で詰んできて食べるとか無理な話になっている。
 
子どもにしてみれば、そんなのは親のノスタルジーでしかなくて、つまりは異世界の話で、自分たちにはマリオでありスプラトゥーンでありマイクラであり、ニンテンドースイッチが日常なのだ。
 
◇ ◇
 
そんな新時代の異星人に向かって、むかしの異世界から話をしたり試験問題を出したところで、いったい何の意味があるのだろうか、とか思うのだけど、まあ、社会に出たら暫くの間は、そんな異世界人のノスタルジーに付き合わねばならないのだとしたら、少しは意味があるのかな、とも思う。