四季一筆

徒然に。

如月四日、立春

きょう以降に強い南風が吹けば春一番なのだが、天気予報はこれから寒くなると言っている。けれども、久しぶりに外気温10度だなんて、暖かさを感じる天気だった。ひと月半ぶりに髪を切った。
 
この頃は、週末の風呂場の排水口の掃除で拾い上げる抜けて流れた髪の毛の量が、すっかり減ってしまった。三十代にはごっそりと貯まっていたのに、いまではその3分の一とか5分の一とか、そんな少なさだ。そもそも抜ける毛自体が減ってしまっているし、それに合わせて床屋で短く切ってもらうようになったので、排水口のトラップをすり抜けて流れていってしまうのだろう。
 
ハゲるんだったら、ショーン・コネリーのようにハゲたいな。
 
◇ ◇
 
プロクシマ・ケンタウリだか何だか知らないけど、人口が増えすぎた地球を出て、百年くらい宇宙船を飛ばして別の恒星系に団体で移住するというSF映画を観た。ところが出発してそんなに経たないうちに、地球からサヨナラコールが届いて、地球自体が消失するという事態に。それを受信した宇宙船のクルーの一人がおかしくなって……という話なんだけど、地球が消滅するということはどういうことなんだろうか、と思った。
 
社会的とか存在論的な「どういうこと」じゃなくて、自分にとっての心理的な意味合いというか、だって、もう駄目だと思って別の惑星へ片道切符で移住しようとしているわけでしょ。だったら、その後の地球からの何らかの庇護≒拘束から自由になるということだから、もう、地球とか地球人類という前提は考えなくてもいいんじゃないか、と思うのだが……。それとも、自分たちの移住が成功したら、あとから続々と地球人が移住してきて賑やかになるとでも思っていたのだろうか。
 
◇ ◇
 
“残された人々”ということではブラッドベリの「火星年代記」とか、絶望的に悲惨な舞台装置=ディストピアが無数に作り出されて物語られてきている。それは我々が知っている地球とか人類とかそれらの歴史とかに何らかの断絶が生じて、“残された我々”はそのギャップを越えて向こうに行くことは出来ないし、越えていった“託された人々”は、同時に、たとえば逝ってしまった地球によってこの世に“残されてしまった人々”でもあるわけで、彼らはギャップを越え戻り、地球に帰ることはできない。
 
ギャップを越え戻ることが出来ないということ、それを意識するというのは、取りも直さずギャップのこちら側に“残された我々”が涙して手を振っているという想定があるわけだ。実在の人類が消滅していたとしても、歴史という記憶とか、かつてそんな文明が存在していたという想定がある。一種のノスタルジーといえるかもしれない。
 
◇ ◇
 
これを敷衍すると、地球とか太陽系という場所に我々がいるから、他の宇宙にも似たような存在が居るのではないか、見つけられるのではないかと考えたくなるのは当然なのだろう。そこには希望がある。なぜなら、越えられない深淵の向こうには誰かがいるかもしれないからだ。ギャップのこちらと向こうと、それぞれに“残された我々”が互いに相手を見つけ出そうとしている(と仮定されている)。
 
そこでは、決定的に絶望的で悲惨な仮定が語られることは、おそらくタブーなのだろうと思う。もしそのタブーが真面目に語られたり、その可能性が真剣に検討されたとしたら、地球人類はギャロ伍長のように振る舞い始めるのだろうか。それとも、箱には必ず最後のひとつが残っていると信じて進んでいけるのだろうか。
 
◇ ◇
 
そんなことを考えながら、昼飯の焼きそばを炒めていました。きょうは小松菜を入れた塩味と、もやしを入れたソース味。