四季一筆

徒然に。

睦月二十七日、道を譲り合う

夕方、カミサンと買物に出かけてみると、暗い道には残った雪が氷結してつるつるに光っている。車の轍にあたる部分が狭く乾いていて、歩く人も自転車もその細い道を通ることになる。
 
ところによっては轍の二本のうちの片側が凍ったままになっていて通れなかったりする。そういうところに、向こうとこちらから同時に行き合うと、どちらからともなく道を譲り合うことになる。どうぞ、どうぞ、と。
 
普段は道を譲る必要も、顔を上げて視線を交わす必要もない住宅街なのに、いまは誰もが互いを思いやって歩いているような気がする。
 
◇ ◇
 
1975年、昭和50年だったかもしれないが、当時すんでいたK県に珍しく雪が積もった。造成地の北斜面にあった私の家は東西に走る道路の北側にあった。北斜面に何本も走る東西道路の両側に家がズラッと並んでいるという、いわゆる新興住宅地というやつ。
 
道路北側にあった平屋の私の家の前、つまり南側に位置する道路は、さらに道路の南側に位置する二階屋の陰になってなかなか雪が融けない。その住宅地は、東西道路を挟んで南側の斜面の高い方はすべて2階建て、道路の北側には平屋が並んでいた。だから、道路には南側の2階建ての陰が落ちることになって、東西に走る道路のどこも雪が融けないのだ。
 
まあ、これが反対だとしたら、つまり道路の南側に平屋、その更に南側の隣接した敷地に2階建てが建っていたとしたら、平屋の庭には日がささないということになるから、当時としては仕方のないことだったのかもしれない。
 
◇ ◇
 
2月に大雪が降った。当時の私の親とか隣近所の大人たちは、雪や雪かきの知識も経験もなかったのだろう。道路の中央をショベルひとつ分の幅で雪かきをして安心していた。ところが、それが翌日、翌々日に凍りついてしまった。東京の雪と同じである。残った雪が融けて、夜の間に凍りついて……を繰り返してスケートリンクのようにつるつるになった。
 
やがて週末がやってきて、こりゃまずいぞと隣近所で話し合ったか何をしたのか知らないが、大人たちが総出で一斉に「砕氷」を始めたのだ。当時、小学生だった私は、その作業を少し手伝ったような気がする。一番よく憶えているのは、父親が持ち出したハンマーと“鏨(たがね)”である。いわゆる烏帽子鏨(えぼしたがね)と言われるもので、それを使って、アスファルトに分厚く凍りついたやつを砕いていた。いっぽう、母親はヤカンにお湯を沸かして何度も台所と外とを往復して、凍りついた部分に湯をかけていた。
 
そんなことで週末の大半を使って、取り敢えず細い、人ひとりが歩けるだけの道を確保できたと思う。
 
なぜ、デスクワークが主の会社員であった父親が、そんなハンマーと鏨を持っていたのだろうかと考えてみると、カーポートの入口が狭すぎて、自家用車の出し入れが難しかったので、入口を広げるために父親が買ってきたのだと思い出した。カーポート入口のコンクリートブロックを壊すのに使ったのだ。

ちなみに父親は運転免許は持っていなくて、母親が車を運転していた。
 
◇ ◇
 
大人たちが総出で“砕氷”した痕は、その数年後に引っ越すときにもアスファルトに残っていた気がする。父親が鏨でうっかり削ってしまった痕も。当時の家は既になく、いまでは別の人の家が建っているけど、道路にはうっすらと、当時の痕跡が残っているんじゃないかな。
 
K県A市R 1丁目13組、45年前には「吉岡1800-91番地」だった。