四季一筆

徒然に。

睦月二十六日、一日籠もる

寒いというのもあるけど、立て込んでいる仕事を消化するために、一日部屋にこもっていて、とうとう外に出なかった。かつての通勤生活の貧乏性が、まだ残っていて、隙間が空いているといろいろと詰め込んでしまう。ほら、電車の中で技術書広げて勉強しちゃうとか、パソコン広げて書類を作り始めちゃうとか、いるでしょ。
 
あれ、一種の貧乏性なんだと思う。貧乏そうにしていると貧乏神がやってきちゃう。気をつけよう。周りからは器用貧乏と言われているかも。
 
◇ ◇
 
何であれこれ詰め込んでしまうのかというと、他人の時刻表で生きちゃうからなんだ。他人の時刻表に合わせると、みんなで一緒に動けて楽ちんだし、一括で大量処理できるから安くあがる。満員電車とか。……ほら、「安くあがる」て、貧乏だな。
 
◇ ◇
 
一番の贅沢は“時間持ち”なんじゃないかと思う。ドラッカーの『経営者の条件』だか何だかを読んで、いたく感心して、そうか、時間か、なるほど、と。
 
三十代特有の熱心さでいろいろとやってみたけど、数少ない残ったものの中で、“はじめに、時間持ちであれ”というのが生き残っているかな。そして、その時間というのは、あくまでも自分に主導権のある時間で、他人の時刻表に合わせて手に入る「スキマ時間」だとか「待ち時間」だとか「移動時間」とか、そういうのとは違うんだよなぁ、と。小手先の時間術は役立つだろうけど、ね。
 
◇ ◇
 
そして、時間というのは物理世界の時間が本質なのではなくて、自分の思考を確保すること、自分の考えや思いに没頭できるということ、それこそが“時間持ち”なんじゃないか、と思うようになった。だから、かつては何処に行くにも本を持っていって、ちょっとした移動や待ち合わせのスキに本を読んだりしていたけど、最近はその必要性もなくなってきた。
 
何より、ぼんやりと待ったり、何もしないで座っていることが出来るようになった。退屈を感じなくなったからだろう。手元に何もなくても、あれこれ考えているだけで退屈しなくなった。他人の時間、他人の思考に依存しなくてもかまわなくなったのか。
 
なんのことはない。「歳をとって厚顔無恥でも平気でいられるようになってきた」だけなのだ。