四季一筆

徒然に。

睦月二十一日、歩く

「不要不急の外出を控えて」だそうだ。明日に予報されている大雪について。「不要不急」て何なんだろうか。
 

不要不急
読み方:ふようふきゅう
 
重要ではなく、急ぎでもないこと。
(不要不急とは - 日本語表現辞典 Weblio辞書)
 
だそうだ。とすると、仕事とか学校とか、殆どの外出ごとは「不要不急」に該当するんじゃないかと思うのだが。
 
◇ ◇
 
けれどもひとは、自分は重要であるし急いでもいるのだ、と思いたがるようにできている。なぜかというと、それこそが自分が際立っている理由だからだ。本当は、理由と事象とが逆転してしまっていたとしても、そのように考えることで正気を保てているという部分がある。本来的には、際立っているからこそ重要であり急がねばならなくなるわけだけど。
 
日本の生産性が上がらない原因も、その辺にあるんじゃないかな。会社に四半世紀かよって実感したのは、不要不急の会議、不要不急の書類の何と多いことかということ。まあ、その不要不急を重要かつ緊急と仕立て上げることでお金が回っているというのも事実なんだけど。
 
◇ ◇
 
用事で久しぶりにO参道とかA山通りとかに行ってきたが、この半年くらいの間に、随分と歩道が歩きにくくなったなぁ、と感じた。あちらから歩いてくる人の流れを避けるのが大変で。誰も彼もが、わたしは重要だ、わたしは急いでいる、そこをおどきっ! てな感じで歩いているのかしらん。それとも、そこまで考えているわけでもなく、ただ漫然と緊急性だけをみなぎらせているのかしらん。
 
似たような光景は、たとえばスーパーの中でも見られる。商品の補充とかで棚の前に台車が置いてあって、一時的に通路が狭くなっているような場所に限って、立ち話をしたりして、粥腫がたまるように人の導線が狭められていることが頻繁だ。休日なんて殊にひどい。なぜかというと、ふだん買物をしない旦那連が奥さんにくっついて来ているからだ。狭いところで立ち話をしているのは年寄り夫婦に多いね。
 
不要不急でもない立ち話を、何もそんなに狭いところでしなくてもいいだろうに、と思うのだが。台車が置いてあると、立ち止まりやすいと感じるのだろうか。
 
歳を取ると視力の衰えとか視野の狭窄が起きるのだろうけど、体力的にもきつくなってきて、そのことが精神的な視野狭窄を起こしたりする。もう、目の前のことで一杯いっぱいという感覚。この辺は、人生半世紀を過ぎた私にも実感できることなので、気をつけないといけないな。人の迷惑にならないように歳を取るというのはどういうことなんだろうか。正しい迷惑のかけ方とか、あるのかな。