四季一筆

徒然に。

正月四日、初詣

正月四日で、近所のH神社まで初詣。とにかく今冬は冷え込むねとか話しながら、霜柱の痕でバリバリになった畑道を歩いて。小学生の息子は黒いネックウォーマーで目から下を隠し、イヤーマフを付けて帽子を被って、まるでどこかの民族主義の戦闘員のような出で立ちで、これだと十分怪しくてケーサツに捕まるね、なんて物騒なことをニコニコ喋っている。自分が如何に他人と差別化出来るのか、というのが存在の本質なんだと無意識に理解し始める歳だからなんだろうけど。
 
四日ともなれば堅気は仕事始めでふらふらしていないから、神社も空いていた。お焚きあげの注意書きが目につく。他の神社仏閣の御札は持ち込むな、人形はダメだ、市販品は御霊が入っていないのでゴミで出して構わない……云々。かつては「まあ、いいですよ」とか言われていたと思うものもかなり渋く絞り込まれていて、その所為もあるのだろうし、そもそも御札を家の神棚に祀るとかというのも少なくなっているのだろうし、三が日が過ぎているのもあるのだろう、お焚きあげの炎は小さな焚き火のようだった。
 
そう云えば、この頃は落葉焚なんかも条例で禁止されている。何十年も昔の私が子どもの頃、川崎大師のお守りとかお供物の落雁の箱とか、神社の御札とか、正月飾りとか、そういうゴミ収集に出すのが憚られるようなものは、自宅の小さな焼却炉で燃やしていた。当時はのんびりとした時代だったのだろうし、ダイオキシンとかについても呑気な時代だった。学校の掃除で集めたゴミは、校舎裏の焼却炉で燃やしてたもん、毎日。
 
 ◇ ◇
 
勝手に道具を持ち出して自分の物にしようと隠し立てしようとした息子を叱りながら、人が過ちに手を染めるのには主に三つの理由があるのかな、と考えていた。たとえば、自分が生き延びるためにどうしようもなく罪を犯してしまうもの(ヴァルジャン的)、自分が他人とは違うと見せつけるためのもの(ルパン的)、自分の望みを実現するための手段で罪という自覚のないもの(サド的)、という具合になるのかな。( )内は勝手に典型してみた。
 
ドイルのホームズだったかもしれないけど、犯罪の理由は大概はカネと女なのだ、と。それに酒を加えて、犯罪の動機は女、カネ、酒なんだろうなと思う。生存の衝動のため、見栄を張るため、そして一時しのぎの快楽のため、人は罪を犯す。
 
子どもは、思春期以降は、他人と自分とを差別化するために色々としでかすだろうが、その前に、自分が望む世界、自分が望む自分の姿、そんな理想を思ったままに獲得するために、それが罪になるのだという自覚もなく手を伸ばし鷲掴みにする。自分が変身ヒーローで、そのために武器としての棒きれを振り回して、その結果として周りのものを壊したり傷つけたりするというやつ。困ったもので当人に罪の意識が希薄だから、まずその辺の社会的な背景とか状況とか何とかを理解してもらわないといけない。あ〜面倒くさい、と思いながらも出来るだけ丁寧に、感情的にならずに説得と説明を繰り返して積み重ねていくのは大変だし同時に面白かったりもする。
 
罪を犯して何が困るのか改めて考えてみると、まず被害者が困ったり迷惑を被ったりする。次に、加害者の評判や評価が悪くなる。ああ、あの人はそんな程度の人なんだよねという裁きが下るだけでなく、ネットに蓄積された“情報”として永遠に検索可能になってしまうことで立ち直りに社会的ブレーキがかかってしまう。そして三つ目に、何よりも怖いのは、ああ自分はそんな罪を犯すような人間なんだ、と思い続けること。その思い自身が更に自分を罪の方へ追い詰めていってしまうということ。普段は粋がっていても、ときとして過去のちょっとした後ろ暗い記憶が湧き上がってきて、自分の心の隅っこをちりちりと刺して通り過ぎていくということ。
 
その辺を、小学生の息子に、どのように説明したらいいのかな、と思うわけです。