四季一筆

徒然に。

謹賀新年 2022

だんだんと毎年の元日に「謹賀新年」とだけ書き込む変なブログになりつつありますが、どこかでブレークスルーのようなことを起こしてバリバリ書いていきたいとは思います。

正月からやんごとない要件で移動しなきゃいけなくなったので、大晦日PCR検査を受けてきました。結果は陰性。が、結果が出るまでに18時間くらいかかっていて、いまかいまかと結果を待ちながら眠り、待ちながら支度をし、待ちながら空港に向かい、結局搭乗までに結果が出ないので、到着した空港で陽性だったら粛々と後行程をキャンセルして新幹線で帰ってこようと思っていたところ、シートベルトの着用サインが消えて前列のお客様からご案内します――というタイミングで「陰性です」の結果報告。

その後は何食わぬ顔をして旅程をこなしているわけです。ていうか、新幹線で移動しちゃいけないですよね。

ともかく、大晦日の午後6時に検体を出して、それを運ぶ人がいて、それを検査する人がいて、それを一晩中見守っている別の人がいるわけで……。

頭が下がります。

おかげで、かなり大事な要件を済ませることが出来ました。

いわゆるエッセンシャルワーカーと呼ばれる人たちのおかげで、ああ、こうやって暮らしていけるし、暮らしている人がいるんだなぁ、と。普段は自宅で仕事をしているし、買物の殆どは通販サイト、ネットスーパーで済ませていて、玄関の外に出る必要性が基本的にない生活になってしまっていますが、その生活を成り立たせてくれているのが玄関の扉の外で日々プロの手技でご苦労くださっている人がいるおかげなわけで。

蟄居して戦略ミサイル搭載の原子力潜水艦のような日々を送っている自分が、如何に世界から隔絶した2年間だったのだなぁ、と思ったのでした。2年ですよ、2年。もう2年間も新型コロナだ Covid-19だ、PCR検査だ、マスクだ、消毒だ、健康観察だ……と我々自身、やってきたわけです。

それだけでも、私達はすごくないですか? いろいろあったし、これからもいろいろあるでしょうけど、歴史に残るすごいことだと思います。出来た、出来なかっただけじゃなくて、腰に手をあてて希望の星を指差しながら仁王立ちしましょうよ。

 

ともかく、あけましておめでとうございます。

謹賀新年 2021

はてなから「1年前のブログを見ましょう」なんてメールが来て、ああ、一年間なにも書いてないや、ということで。

 

去年の今日は「こうもりで行こう」なんて勝手なことを書いていたけど、結局、息子の中学受験とか、その後の臨時休校とか、なくなってしまった入学式だとか、その後も臨時休校とか分散登校とか、自宅学習で煮詰まる息子とか――もう、大変な一年でした。

4年前に自宅仕事に切り替えておいてよかったというか、結果論なんだけど。

で、今年はどうしようか、と。3年間、気が気でなくて心のゆとりが無くなっていた原因の中学受験がなくなって、一種「中受ロス」のような状態もあって、まるでチェーンが外れたまま惰性で進んでいたような10ヶ月間でしたが、そろそろなんとかしないといけないよな、と。

きのうの生放送本番に20分遅刻した某さだ氏のように「月になる」というのもいい。毎日決まったように昇って沈む太陽よりも、毎日違った時間に登場して、時には出てこないこともある月の自由さだとか。

そもそも人が不幸になったり、不愉快になったり、不機嫌になってしまうのは、その人が他人の時刻表に拘束されているからだ、というのが2020年の私的発見でありまして、なるほど、それなら他人の時刻表に振り回されない、もしくは自分自身が勝手に想定して恐れている“他人の時刻表もどき”のようなものを廃していくというのはどうだろうか、と思った。

何年か前、毎日通勤で職場と自宅との間を往復運動していた頃に、よく心の中で唱えていた言葉を思い出した。

「不焦不競不急」。ふしょう、ふきょう、ふきゅう。

焦らない、競わない、急がない。つまり、他人のスケールで自分を測ったり、他人の土俵に上がっちゃったり、他人のフンドシで相撲をとったりしないようにしよう、という自戒であります。

競わなきゃ勝てないじゃん――という意見もあろうが、勝ち負けに巻き込まれている時点で状況に負けてしまっているわけで。

理想は、状況を支配すること。勝負師じゃなくて胴元になるってこと。パチンコも宝くじも運営者が必ず儲かる仕組みだというし、ちょっとむかしの流行り言葉では「ブルーオーシャン」というのもあったし。まあ、競合がいないということはメリットも存在していないんじゃないか、というツッコミはできるけどね。

 

ということで、謹賀新年。2021年は私的温故知新で「不焦不競不急」で行こうと思う。うん。

 

あ、おかげさんで、息子は無事に第一志望に受かりました。御三家とかじゃないけど、身の程というやつで満足してるみたい。

 

謹賀新年 2020

令和二年。

新しい元号になり、その最初の正月ということで、一年半ぶりにポストしてみる。いや、理由なんて何でもいいんだけど、何にでも意味を見出せるのがヒトの優れたところ、スゴイところなんだろうと思う。そのスゴイ能力は誰もが持っていて、「それを使いなさいよ、もったいないよ」とか押し売りするつもりはない。使いたいから使う。

こんな具合に、その時の状況を無理やり変えようというのではなくて、波が来たのを感じたから乗ってみたというような態度は、宿命論的な考え方を基本にしているのかなぁ、と自分自身では思うのだけど、人間の努力でそれを変えられないのだとしても、予めそれが分かっているわけではないから、宿命論て、実は無意味なのかな。

どちらかというと仏教の因果応報のような立ち位置で行きたいと思う。が、自分の考え方を変えるだけで三千世界の未来が変わるとかの並行世界論的なものではなくて、「殺活自在」(せっかつじざい)のような、いや、もっと卑俗な、その場その場で考え方を柔軟に運用することで何とかなるんじゃないか、という立場なんだと思う。場合によっては運用が「止揚」かもしれないけど。

他人に言わせれば「それってつまり、『こうもり』じゃん」ということなのかな。

良い意味での「こうもり」でいきましょう。