四季一筆

徒然に。

如月二十一日、銃社会

米国フロリダの銃乱射事件で、銃規制強化を求めるデモ、有名人が支援とかニュースがあった。こういうニュースでは、
 
・銃擁護派=自衛のためには武装が必要だ。相手も武装しているから立ち向かうしかないじゃないか。
・銃規制派=銃なんか持っているからぶっ放したくなる。銃を一掃すれば、撃ちたくても撃てないだろ。
 
と、まあ、大筋こんな感じか。
 
こういう報道で、いつも欠けてるなぁ、と思うのは、銃を持つことは人類が進化するにあたっての必然なんだろうという見方かと思う。かとって、私は銃所持を擁護するわけではない。と同時に、銃規制が有効なやり方でもないだろうとも思う。
 
◇ ◇
 
銃擁護派は、基本的に性善説なのだ。我々は善人である。善人であるからには、誤った銃の使い方はしない。そもそも撃たないために銃を所持しているのだ。いわゆる抑止力としての銃なのだ――と、どこかの軍拡競争で聞いたような科白だけど。
 
いっぽうの規制派は、基本的に性悪説なのだ。人間はいつ狂ったり悪人になったりするかわかったもんじゃない。それは我々も同様だ。何も確かなことなんて無いじゃないか。だから、狂人や悪人が持てないように銃を規制したほうがいい。
 
◇ ◇
 
まあ、どっちでもいいけどね。好悪はあるけど是非はないから。
 
◇ ◇
 
銃というのは飛び道具で、飛び道具というのは身体機能の拡張なんだ。それは刀や槍でも言えることだし、遡れば「2001年宇宙の旅」の冒頭にある、骨を武器に同類を殺害する猿までたどれるだろう。なぜ、我々は身体機能を拡張したいのか、いや、身体に限らず、人間の持っている心身の能力を拡張したり強化したりしたいのかという動機については、ここでは語らない。
 
だが、我々は幼児の頃からそのような機能を組み込みとして持っている。特に男子がそうなんだろうけど「棒があったら拾う、拾った棒は振り回す」という基本機能が人間には備わっている。
 
スピードを競うスポーツや、SNSでの“おともだち”とか、Amazonの翌日(当日?)配達というやつだって、骨を振り回していた猿から高校で銃を撃ち振り回していた男までの線上のどこかにプロットできる。
 
◇ ◇
 
だからと言って、フロリダの高校やラスベガスのコンサート会場で銃を乱射してもいいとは言わない。それは少なくとも“善ではない”からだ。
 
けれども、おそらく人類の進化の過程での必然性としての意味があるんだろうと思うし、その辺を詳しく考えない限り、相変わらずアメリカの高校では銃が乱射される続けるのだろうと思う。