四季一筆

徒然に。

理想の高低差


歳をとっていいこと、わるいこと、色々あるが、いいことのひとつは、好き勝手を言えるようになってきたということ。半世紀も生きていると世の中の大概のことがわかったような気になり、だから、ずけずけと他人を悪し様に莫迦にすることが出来るようになる。若いと自分に自信がないから、そんなこと、決して口には出来なかったわけだけど、歳をとって厚顔無恥でも平気でいられるようになってきた。

たとえば、昨今は国内外を問わず洋の東西を問わず出来の悪い中学生のような奴が国政の中央にふんぞり返っているなぁとか、人類は認知コストを節約することばかりに目を向けるばかりで、額に汗するとか、手を動かして考えるとか、互いに話をよく聴いて上げるとか、そういう大事だけど面倒くさいことを「めんどー」と言葉まで節約して軽視するようになって、様々滅びに向かっているんじゃないかなぁ、とか。

そうやって、自分のことは棚に上げておいて、おろす手の甲で他人を叩いて平気な顔でいられるのが歳をとることで得られる特権なんだよな、と。

つまり、私に影響力がないから、何をやっても痛がる人がいないということ。浮塵子虫のようなものだ。

◇ ◇

「時代に対応した姿」と「理想の形」というのが、実は相反する矛盾したものであるにもかかわらず平気な顔をして公言できるのも、歳をとることによって得られる特権のひとつなんだろうなぁ、と思った。

時代なんて幾らでも移ろえるもので、たった150年前にはサムライの世の中だったのに、1世紀半後の現在は、もうすぐ月に住めるのかな、なんて話が食卓で交わされてもおかしくない世の中になっている。その1世紀半の世界の国々の動きだって相当に慌ただしいものだった。

そんなウロウロヨロヨロとした集合離散に「対応」するなんぞ、理想とはほど遠いものだと思う。もしそれが「理想」だと思えるのなら、たぶん勘違いだろう。勘違いに率いられる国民もいい迷惑だ。理想とは、そう簡単に変わるものではない。小学生の人気職業ランキングじゃないんだから。

国の理想の向こうには、かならず人としての理想があるんじゃないかと思うのだ。人としての理想があって、その人たちが集まって国として体現しようじゃないかというのが順序かと。

それを、現実に合わせて理想を矮小化しようだなんて、2700年の歴史が許してくれないだろう。

誰が決めたのかなんてのはどうでもいい。災いの大半は、人が好んで起こそうとして起きるものではない。ふいに起きてしまうし、天から降ってくるのだし、外から訪れてくる。それに対して、人としてどのように振る舞うのか、考えるのか、助け合うのか、その積み重ねが日本なんじゃないかな。

与えられた状況に対する身の処し方を定めてくれるのが、現代で言うところの理想ってやつなんだと思う。時代に合わせて理想を変えるのではなく、理想に時代が寄り添う。たぶん、安定陸塊の上でごちゃごちゃと喧嘩ばかりしていた人たちにとっては、容易に理解できないだろうけど(だから、彼らには一神教という「理想」装置が必要だったんだろうと思う)。