四季一筆

徒然に。

水無月十二日、次はない

 
日本は失敗を許さない、認めない国だと聞く。一度の失敗で完璧に失脚するとか、再起の機会が与えられない。一度の失敗が死を意味する。それは、心のゆとりの無さが現れているのだろうか。
 
◇ ◇
 
常々、日本は「災害立国」だと思っている。豊富な自然災害が文化的な背景としてあって、そこで暮らしているから、常日頃から有事に備えての根回しや以心伝心の基盤を整える。そのために仕事は丁寧に、礼儀正しく、いざというときに備えたムラ社会を作りたがる――と。
 
それは、人の意志の届かない、通用しない、圧倒的なチカラを持つ自然を相手に暮らしているからだろう。
 
失敗を許さない社会は、本来的には、そのような自然災害によって命がけに暮らしているからだ。一度の失敗が、そのまま死ぬことに直結しているから、何事にも慎重になるし、丁寧な仕事ぶりにつながる。次がないからだ。
 
一度の失敗が死につながるということで、武士の切腹のような決死の“文化”へとつながったのかな、と思うのだ。
 
◇ ◇
 
同時に、その反動・反作用というか、「命がけ」ということを忘れてしまうと、簡単に不正に手を染めてしまう。自分たちが決死の大地に暮らしていることを忘れ、自分自身の思いだけで何事も成し遂げられると錯覚すると、不正も手段のひとつにしか思われなくなる。
 
科学技術や社会的な“溜め”が発展、普及すると、失敗をある程度許容できる社会が立ち現れてくる。それはそれでいいのだけど、同時に「命をかけない社会」になってしまう。すると、慎重さ、丁寧さ、礼儀正しさ、思いやりという“美徳”といわれてきたことが希薄化しやくすくなるのだろう。
 
果たしてその“美徳”を保つべきなのかどうなのかはわからない。今後は「要らないもの」として切り捨てることが出来るのかもしれない。切り捨てて、もっと別の何かを獲得できるのかもしれない。
 
でも、科学技術で自然災害を超克できるほど、人間が優れているとは思えないのだ。
 
◇ ◇
 
天皇皇后両陛下の福島ご訪問を新聞で読み、そんなことを考えていた。