四季一筆

徒然に。

皐月二十七日、僕らが滅亡を好きな理由

日経サイエンス」2018年6月号に『「勝つための議論」の落とし穴』という面白い記事があった。
 
いわゆる“議論”というやつには二種類あって、(A)学ぶための議論、そして、(B)勝つための議論なんだそうだ。
 
◇ ◇
 
(A)学ぶための議論の目的は、両者が議論を通して合意点に進むこと。いっぽう、(B)勝つための議論が目的とするのは、議論という競技で「ポイントを上げる」こと。
 
(A)は相手の言い分をも認めるということで相対主義的であり、(B)は自分の言い分こそ絶対であり議論には正解があると信じているので客観主義的である、と。
 
◇ ◇
 
科学雑誌に載る記事だから、当然、筆者は「◯◯をテーマに議論してください」という実験をしているわけだ。ただし、その実験の被験者には、実験ごとに次のような異なる“助言”が与えられている。
 
(a) 相手からできるだけ学ぶこと
(b) 相手を言い負かすこと
 
このように最初にシードが撒かれると、それに応じて被検者の理解が変容するらしい。もちろん予想通りに、
 
(a)学べ →(A) 学ぶための議論
(b)負かせ→(B) 勝つための議論
 
となるわけだ。
 
◇ ◇
 
この記事を読んで思った。
 
(A)学ぶための議論は問題解決的な議論なのかな、と。問題という一種の仮想敵に協働して立ち向かうというイメージか。
 
いっぽう、(B)勝つための議論は相手が敵そのものとなる。
 
仮想敵に立ち向かうために(A)の人々はコミュニケーション(=議論)を通して意識のプラットフォーム(=合意)を作ろうとする。他方、(B)の人たちは相手を打ち負かして自分の価値を周囲に誇示して満足するという、いま国会で与野党がやっていることだ。
 
仮想敵、たとえば圧倒的な自然の力とか災害に対してみんなでそろって対決するためには、(A)学ぶための議論を通して合意点に達していなければならない。まあ、このときの“議論”というものが字義通りのものとして適切なのかどうか、もしかしたら権威者に盲従するということなんじゃないか、なんてことは置いておいて、ともかくここでは意識をそろえておくための場として機能している状態としよう。
 
◇ ◇
 
このように、相手の言い分を前提として合意点を見つけ、意識として安住できる足場を作る――そういう事を繰り返してきた私達は、共通の意識プラットフォームと、偶然にして姿かたちが似通ったモンゴロイド集団が大多数だったということで、“日本人という単一民族”なんて幻想的尺度をも作り出してしまったわけだけど、おかげで、外来の多様性を学べる土壌を育んできたとも言えるだろう。
 
そのような“安住できる足場”に、まさに安住してきたから、合意点を形成するための契機としての災害を期待する何かが育まれたのかな、と思ったのだ。
 
どこかで地震が起きれば「いよいよ来たか」とか「始まったな」とか「wktk」なんてメッセージが走るし、ソレ系の雑誌やウェブは人類滅亡とか世界終末とか「◯◯の予言」とか「未来人が語る」とかで人類を滅亡させたがっているようだし、実際、「◯月◯日、滅亡決定」なんて具合に何度も繰り返し滅亡させられてきている。(ワタクシ的にはそういうネタは好きだけど)
 
◇ ◇
 
ということで、人は合意を得るためには、自分たちの命を差し出しても構わないという人たちが居て、その人達によって、人類滅亡が渇望されているんじゃないか、と麦茶を入れるピッチャーを洗いながら思ったのでした。
 
そしてそこでふと思ったのは、これまで反目しあっていた者同士が、唐突に合意に向かって進もうとしているとき、もしかしたらそこに共通認識としての“仮想敵”が想定されているのかもしれない、て。
 
はて……。
 
 
▼「勝つための議論」の落とし穴 | 日経サイエンス
http://www.nikkei-science.com/201806_080.html