四季一筆

徒然に。

皐月十五日、大人の揚力

先週休んでしまった塾の授業内容を確認する小テストがあるから「いやだなぁ」と言っていた息子だけど、いざ塾に行くときになると「別に不安じゃないよ。安心してる。諦めたから」とのたまう。
 
あー、「安心」の裏書きは「諦め」ですかい。
 
◇ ◇
 
心が穏やかで乱れることがないのは、自分の有り体に自信があるから。不安で心乱れるのは、自分の希望・期待に対して、予想される結果が及ばないだろうと思うから。だから、未達な自分を予想して不安や心配にとりつかれることになる。
 
だったら、自分の希望・期待なんて最初から引き下げとけばいいじゃん、安心・安全なレベルに引き下げて、絶対に達成できるくらいにしておけば安心できるじゃん――というのが今回の息子の“戦略”らしい。
 
◇ ◇
 
この辺は人類の進化とか文明の発展とも絡んでくる問題なんだろうけど、安直な道を歩めば楽ができるのにもかかわらず、どうして人類は難しいことに挑戦しようとするんだろうか。やっぱ、富と名声か?
 
ただし、富も名声も、昨今ではかなり単価が下がってきているらしくて、最初からそんなもん要らないよ、とか思う人が増えているのかもしれない。権威とかが憧れの対象ではなくて、胡散臭さの指標になりかけている時代にようこそ。
 
◇ ◇
 
簡単に諦めるんじゃなくて、子どものうちに出来るだけ坦々と努力することの意味とかを知ってもらいたいもんだけど、まあそこのところは親の僻目(ひがめ)というか、自分のことは棚に上げて子どもにばかり無理強いしようという身勝手のひとつなんだろう。
 
ただ、子どもはどうしても経験というスタミナが無いから、努力を少しでも怠るとたちまち効果が落ちてしまう。つまり逆に言えば、少し努力するだけでも成績が上がりやすいということ。
 
その点、大人は経験に裏打ちされているから、多少の手抜きもリカバリーする術を持っている。それは知恵や知識や技術だったり、これまでに培った人脈だったり、励んだ蓄財だったりするわけだ。それに、どの辺で諦めるべきかというタイミングを測るのに役立つ経験(=失敗)をたくさん積んでいる(=詰んでいる)。
 
子どもはその辺がわからないから、頑張るんだけど結果がすぐに出てこないのがつらくて、漕ぐのを止めて高度を落としてしまい、慌てて力任せに漕ぐ――というのを繰り返してしまう。ああ、不器用だな、かわいいな、と思うところだ。
 
◇ ◇
 
そんな不器用なインターバルトレーニングを繰り返しているときに、ふともう一人の自分がささやくわけだ。「基準、高くね?」
 
そうか。目標を下げればいいんじゃん!
 
ということで、目標値を下げるという一瞬にして簡単な概念操作で、つかの間の安心を手に入れる。手に入れた心の平穏は悟りの境地にも等しく、いままでも自分の不安と怒りは一体何だったんだろう、と。←息子、いまここ
 
◇ ◇
 
私だって偉そうなことは言えなくて、息子と同じような概念操作の依存症のようなところがあって、あのときもっと頑張っていれば……の死屍累々な人生なわけだけど、せめて息子にはもうちょっと頑張ってもらいたいな、と思う。
 
「安心」と「諦め」は紙一重だ。
 
諦めないで、でも無闇に無駄なガムシャラを繰り返して疲れるんじゃなくて、できれば右肩上がりに定常運行でず〜〜と昇っていってもらいたいなぁ、と思うわけです。
 
「えー、でもそんなの、おとなはラクにできてズルい」なんて言われそうだけど、昇れるのは若いうちだけ。大人は楽して飛んでいるように見えるだろうけど、これ、実は墜落しているということを君たちは知らない。
 
そう。大人は経験という揚力があるから、なかなか地面に激突しないのだ。本当のところは飛んでいるんじゃない。
堕ちてるんだ。
カッコつけて。