四季一筆

徒然に。

水無月朔日、人はあそびたい

どうしてこうも我が子は胡乱(うろん)なんだろうか、と思い煩っていたら、私自身の三歳の頃のことをぼんやりと思い出した。
 
においとともに記憶が浮かんでくる。良いにおいではないのに。
 
◇ ◇
 
側溝の底をチョロチョロと流れている汚れた水の流れの中で、白くふやけて死んでいるミミズ。道端のコンクリートのゴミ箱から漂う酸っぱい残飯の腐敗臭。汲取車の甘い排気には、数限りない人々のやるせなさが混合されている。あの太くて緑色のホースが、「ハーッ」と空気を吸い込んでいるのは恐怖だった。小さな自分が吸い込まれてしまいそうで。でも、いつでもホースの先につけてある野球のボールが欲しかった。大人になったら汲取車の運転手になるのが夢だった。
 
◇ ◇
 
人は最初から遊んでいる。社会に出て仕事をするよりもずっと以前、学校に入るより前に、既に人は遊んでいる。だから、人はそれを続けたいのだ。
 
その証拠に、働く必要がなくなると、大概の人は遊んで暮らし始める。ベーシックインカムという制度が懐疑される理由だろう。みんな遊んでしまったら、誰がそのカネを稼ぐんだよ。
 
研究職とか、仕事と遊びの区別の無い人を羨むのも、基本的に人は遊び続けたいからなのだ。
 
◇ ◇
 
遊びたいけど、働かねばならない。遊んでいる人の代わりに働かねばならない。なぜなら、自分が何で遊べばいいのかを忘れているからだ。自分がかつて、何よりも先に遊んでいたことを忘れているからだ。
 
◇ ◇
 
遊ぶというのは、自然を観察することから始まると思う。ベビーカーの中から驚異を見ること。そこから始まる。
 
やがて目のあたりにしている驚異の意味や仕組みに謎を感じる。知ろうとする。そのために、真似てみる。からだを動かしてみる。そして考えたり、あれこれ試してみる。
 
そんな遊びの姿勢をそのまま適切な形で、言い換えれば、大人の世界との整合性を失わない現実的な疑問として、そんな遊びの身構えを持ち続けると「勉強が面白い」と思えるような子になるのだろう。
 
◇ ◇
 
ところが、いつかどこか何かで、ボタンの掛け違いのようなことが起きてしまって、遊びの姿勢を保てなくなり放り出してしまう。何もかもが嫌になる。取り敢えず誰かがくれたものをそのまま右から左に動かす。そこでキラキラ光ったり、カラカラ音が鳴ったりすると反射的に笑う。視神経と聴覚神経を刺激してくれたからだ。
 
けれども、ボタンを掛け違っているので、なぜ光ったりするのか、なぜ鳴るのか、そもそもなぜソレがソコにあるのかについて、思いが巡らない。もう飽きて、次を待っている。誰かが持ってきてくれるのを待っている。けれども、勉強は嫌だ。ニガイから。きっとニガイに違いない。だってニガかったんだもん。
 
勉強しないで遊んでばかり――じゃなくて、遊び方を忘れてしまっているのだ。遊びを禁じることは勉強を禁じることかもしれない。遊びの第一歩に立ち戻ることができるだろうか。
 
◇ ◇
 
どうやったら、本当にニガイのかどうかは口に入れてみないとわからなのだよ、と息子を導けるのだろうか。
 
いや、私自身、そんな食わず嫌いがあって、きっとニガイんだよ、ほら、やっぱりうまくいかない、きっとニガイからだよ――の繰り返しだった。だから、息子に言うことに説得力がない。取り繕ってカッコイイことを言ってみても、その言葉の端っこに負け犬のヨダレがついているのだ。
 
◇ ◇
 
濡れた犬のニオイを思い出した。