四季一筆

徒然に。

謹賀新年 2023

本当は毎日でも書きたいわけですが、やっぱり元旦にしか書けないという、困ったもんです。4年目=4回目です。

あけましておめでとうございます。

 

2020年から本格的に始まった Covid-19キャンペーンも、4年目となってしまいました。去年は、某国が隣国に攻め込んで返り討ちにあって、双方ひどいことになっているし、なんだか地球規模でいろいろと不景気ですね。

 

この数年、特に新型ウイルス騒動が始まって以来、体や感覚の衰えのようなものを感じるようになりました。思ったように体が動かない。たとえば、何かを取り上げようとすると、そばにあるものや手前にあるものに指先が当たって倒したり落としたりする。朝めざめて起き上がるときに、体中がこわばっていて痛いとか。指先がとにかくカサカサに乾いているので、ヤマト糊の「ノンスリップ」という滑り止めの膏薬のようなやつが手放せないとか。

これは、実際に歳をとらないとわからないことです。どうして年寄はあ〜なんだ、だめだなぁ、とか、そういう若いころの感覚というのは、実は実体験として自分が歳をとらないと理解できないことなのが実感されます。その辺、双方ともにおあいこなんですけど。若い人の無理解は若いからだし、年寄のどんくささは年寄りだからだし。

同情とか共感というものは、実は感覚的なことではなくて、論理的なこと、つまり理屈なんじゃないかな、と。感覚的に実感するには、その歳にならないとだめなわけです。であるとすると、知識として学ぶ、そしてとりあえず「ああ、そうなのか」と思って、じゃあ、目の前の人は実際どうなんだろうか、て話を訊く。それは老若男女問わずにむかしから必要とされてきた姿勢なわけですけどね。

 

正月早々不景気な話ですが、私は、人間は認知コストを節約する、つまり経済的存在だと思ってますから、そんな傾聴の姿勢なんてものが主流になるとは思えない。だって、めんどくさいでしょ、正直。そもそも、そんなことが社会的に実現されていたら、傾聴の重要さなんてものを語る必要がないはず。それが道徳的に「大事なことだよね」みたく話されるというのは、つまり実現されてきていないし、おそらくは今後も実現されないだろうということなんでしょう。

歳とって得られたいいことに、「これまで〇〇だったから、今後も〇〇だよね」と確信を持てるということ。そうでなく、光に満ち溢れた希望の社会が実現できるのだとしたら、ぜひ頑張ってください。ただし、流行りの「エヴィデンス」としては、「これまでの数百年、数千年の間、課題とされ続けてきたにも関わらず、人類は本気で解決していない」ということがあるなら、それは今後も実現しない可能性が高いので、大変な努力が必要になるでしょう。

そういう前提条件が、歳をとると見えてくるわけです。そして同時にあちこち体が動かなくなる、頭もなんだかぼんやりしてくる。あー、課題の要点は見えたけど、こりゃ、だめだなぁ、とか思ってしまう。

つまり、これが若い人たちから見える「老人=保守」という景色なのかなぁ、と。

 

歳をとると色々とわかってくる、見えてくる、けれども体が動かない。若いと希望の光に惑わされて有り余る体力でそちらに疾走しようとするけど、足許が危うくてうまくいかない。そんな希望の光で金儲けしようなんて手合いが居たりすると、ますます目も当てられない。

なかなか難しいもんですね。どうしたもんでしょう。

まずは傾聴でしょうか。

 

ことしがあなたにとって良い年となりますように。

オレも頑張んなきゃ。

 

2023年元旦の長崎県東彼杵郡の夕日