四季一筆

徒然に。

水無月十日、見る。信じる。

 
見ることと信じることとは、あまり関係ない気がする。
 
見えているから信じるというのでもなさそうだ。
 
◇ ◇
 
最近見た夢。
 
どこかの広い建物の屋上に立っている。床面積の広い建物で、学校とか病院とかを思わせる広さだ。高さもかなりあるらしく、屋上のほぼ中央に立っている私からは、街区をいくつか離れたところにあるこんもりと茂った森の梢の頂が、ほぼ私の目の高さに見えている。武蔵野台地の縁だろうか。
 
屋上には黒っぽい防水処置が施してあって、建物の角、隅の方に階段室の小屋、その扉は開かれている。
 
これなら、この屋上を天体観測に使えるな、と考えている私がいる。私はこの建物に暮らしていると確信している。そこに暮らしている何かの証拠となるものを見ているわけではなく、単に屋上の黒い防水処理と、その向こうの森の黒い陰を見ているだけなのに、自分がここに住んでいて、長らくしまわれたままの天体望遠鏡を使って、毎晩この屋上で天体観測をすると確信している。
 
◇ ◇
 
もうひとつ夢の話。
 
よく見る夢に、空を飛ぶエレベータがある。建物の中で上に行ったり下におりたりし続けるという夢をよく見る。そして大概は階段ではなくてエレベータを使っている。そのエレベータが、ときどき建物の最上階を飛び出して空を飛んでいるのだ。
 
実際に飛んでいるのを目撃しているのではない。密室のエレベータが傾き、頼りなく放物線を描いているらしいことが、身体で感じられる。そして、そのエレベータが故障したとか事件に巻き込まれたというのではなく、それが仕様なのだ、空を飛ぶように作られていると私は無条件で信じている。
 
◇ ◇
 
その他にも、現実世界においては荒唐無稽な設定や経験が、夢の中では当たり前に感じられることがたくさんある。夢で見ているものを、私は無条件で信じている。
 
もしかしたら、見えているから信じているのだろうか。見えるから信じるのだとすると、信じるという行為は実に当てにならないことに思われてくる。確かに、手品、トリック、錯覚のようなものを容易に信じてしまうから成り立っている商売があるわけで、人間の感覚がいかにいい加減なものかは、日々の生活で実際に経験することだ。
 
けれども、夢の場合、何かを見ているのではない。見ていないにもかかわらず、荒唐無稽なことを、それで正しいのだと確信している。
 
であるとすると、「見えているから信じる」というのはウソなのだろうか。目覚めて目にしているものを信じることができないこともあれば、見てもいないことを無条件で信用してしまうこともある。夢の中では無邪気に信じている。
 
◇ ◇
 
このように考えると、「信じる」の根拠や由来はどこにあるのだろう、と思い始める。
 
「目で見えるから信じる」、「科学的に合理であるから信じる」というのは、実はそのように我々が信じたいだけなのではないか?