四季一筆

徒然に。

水無月二日、何事もない

ゴミ袋を持って朝の玄関を出ると、週末の青空に白い雲がぽかぽかと浮いていた。暦では夏に入ったが、まるで春の温かい匂いがするような空気で、きょう一日何事もないことが保証されているような気がした。
 
どこか遠くの離れたところには、耕されつつある畑が広がり、耕運機が黄昏時に向けてゆっくりと進んでいるだろう。
 
◇ ◇
 
「きょう一日何事もないことが保証されてい」たのは、いつのことだろう。息子が生まれる前か、結婚する前か、仕事に就く前か、大学に入る前か……。はるかにずっと昔の、最初の夏休みの前かもしれない。
 
◇ ◇
 
「何事もない」というのが、いつの間にか、大概は悪い意味で使われるようになったのか。何の変化もない。進歩も改革も前進もない。ただ安穏と、状況に身を任せて漂っているだけの、無垢をよそおった未必の故意のようなものだから、「何事もない」というのは無責任極まりない、空気がよどんで社会がダメになる、という論法。
 
そうかもしれない。
 
刺激もないし、お祭りもない。平凡で坦々としていて退屈で、時間の流れのどこにも目印がないから、区別がつかない。そんな曖昧なのは良くないことだ。けじめがつかない。反省がない。前向きに反省してもらいたい、な、キミ、と。
 
◇ ◇
 
まあ、いいじゃん。何事もないのだから、それは無事ということ。平凡で坦々としていて退屈に見えるかもしれないけど、毎日のやることが決まっていて、それをやらないと前に進めないのだから。
 
そして、古代から中世にかけての、歴史に残っていない庶民の生活というものを想像する。きっと毎日おなじような仕事、同じような生活、同じような付き合いの繰り返しで、自分のじいさんやおやじが同じことをやっていたから、自分も同じようにやっていく。公家や武士が何をしようと騒ごうと、こちとらの毎日は同じことの繰り返しだし積み重ねなんだ。教会や領主が何を言おうと、畑は耕さないと収穫は期待できない。つまり、そういうことだ。
 
◇ ◇
 
そんなことをぼそぼそ考えながら、きょうもゴミを出し、皿を洗い、洗濯をするのでした。
 
一日暑かった。
 
ふだんと違ったのは、息子と一緒に出かけて、いつもは歩かないような距離を歩いて、ふたりで初めてコンビニのイートインで昼ご飯を食べ、冷たいアイスを食べたこと。こういう幸せというのもあるんだな。