四季一筆

徒然に。

皐月二十六日、黙してから語る

このところ、人が語るということは一体どういうことなんだろうか、と考えている。
 
◇ ◇
 
人が語るには、まず語りたいことを自ら知り、そして語りたいことを語る、そのための時間とかゆとりが必要だ。次は、語られたことを聴く、傾聴するという時間とかゆとりが必要だ。そしてそのままオウム返しに返事をしたり同調するのでなく、もちろん脊髄反射的に行動に移るのでもなく、まず聴いたこと、受け取ったことを自分の頭で疑いながら調べて、なるほど、その通りか、などと納得する時間とかゆとりが必要だ。
 
そうやって、ようやくひとつの“語り”が完結する、“語り”の末尾には、受け取ったもの、そして、語り終えたもの両者の沈思黙考が必要だと思うのだ。受け取ったものは、はて、この話は本当なのだろうかと反芻しつつ消化・分解する。語り終えたものは、はて、この語り方でよかったのあろうかと、自らの話を反芻する。
 
◇ ◇
 
そのためには、「間」が必要なのだが、それが失われている。いや、もともと日本人の大半には、そのような「間」は存在していないのではないかとすら思えてくる。
 
なぜかというと、日本は「災害立国」だからだ。いつやってくるかわからない、圧倒的な力の前では、理屈など消し飛んでしまう。だから、有事には権威的な理屈の下で一糸乱れぬ動きを脊髄反射的におこなう必要がある。なぜなら、そうしないと死んでしまうから。
 
だから、思案して語り、語りを聴き、それを反芻するというような、まどろっこしいことはやっていられないのである。すばやく反応するには「空気」を読んで、理屈を超越した無意識という自動計算で次の一手を決める必要があるし、それでうまいことやってこられたという実績もある。
 
小学生の息子が、これに関してのマジックワードをよく口にする。「習ってないもん」「みんなそうだもん」。
 
◇ ◇
 
そういうわけで、思案する、論理を編むといったことを忌避して大半の人がやってきてしまった。そのかわり、空気を読む、忖度する、それを強制するために威圧する、恫喝するといった手法を伸ばしてきた。
 
良い悪いとは別に、そういうことじゃないかと思うのだ。
 
◇ ◇
 
よく言われる「奥ゆかしさ」とか「おもてなし」とか「おもいやり」とかは、実のところ上流階級のマイノリティの心象であって、宮廷生活から縁遠かった庶民としてみれば、自然災害とお上の無茶ぶりに即応するだけで精一杯の一生だったんじゃないかな。「親切」とか「丁寧」というのは、即応体制を維持するために必要な保守作業だったのではないか、と意地悪に思ったりもする。
 
そのような庶民的生存戦略というものが脈々と受け継がれているにもかかわらず、明治維新以降の「◯◯運動」とか「◯◯体制」とか「◯◯思想」に隠蔽されてしまって、先進国に追いついたと勘違いしているのかもしれない。
 
このところの“日大アメフト問題”を眺めながら、そんなことを考えていた。
 
◇ ◇
 
コメンテーターと呼ばれる人たちは、監督が悪い、組織が悪い、と自分たち以外の人たちを「悪い悪い」とあげつらっている。まあ、そんなこともあるだろうけど、実のところ私たちみんなの下に流れている、そんな“脊髄反射機能”というものがきちんと作動しているということなんじゃないか、と。
 
これは、「グローバル化のために英語の勉強だ」とか「小学生にプログラミング教育を」というのと根は同じで、表面だけ取り繕っても、その土台として必要だと思う“論理の必要性”というものが庶民レベルで醸成されていないのだから、結局は望んだとおりに育たないんじゃないかな、と思うのだ。
 
◇ ◇
 
ついでだけど、「沈黙は金」ということわざは、下手な雄弁よりも黙っている方がマシという意味で使われるけど、本当のところは沈思黙考の大切さを語っているんじゃないか、と思ったりする。
 

大辞林 第三版の解説
ちんもくはきんゆうべんはぎん【沈黙は金,雄弁は銀】
 
沈黙の方が、雄弁よりもまさっていることのたとえ。
 
実用日本語表現辞典
 
沈黙は金
読み方:ちんもくはきん
 
沈黙することには金にも喩えられるほどの価値がある、という意味で用いられる語。
 
しばしば「雄弁は銀」との対で用いられる。一般的には、下手な弁論や弁解よりは黙している方がましである、という意味合いで用いられる。これは「言わぬが花」にも通じる含蓄といえる。
 
「沈黙は金・雄弁は銀」は西欧文化圏から導入された格言とされる。英語にも「Speech is silver, silence is golden」という格言がある。
 
この「沈黙は金・雄弁は銀」という表現が成立した当初は、金よりも銀の方が価値が高かった、つまり、、元々は、沈黙よりもむしろ雄弁を称えた格言であったという説がある。この見方に則ると、昨今では金の価値が銀に勝り、格言の意味はもっぱら沈黙を称える意味となった、ということになる。
 
なお普通は「ちんもくは《かね》なり」とは読まない。カネと読む場合は大抵「時は金なり」と混同した誤り。