四季一筆

徒然に。

皐月二十一日、美人の責任と醜男の芸術性

ふと、醜男を主人公にした物語はどうだろうか、と思った。
 
大概の人間は美男美女ではない。美男美女、いわゆる美人というやつは、人々の生活圏や体験における平均顔らしくて、日本人には日本人の平均顔が、アングロサクソンにはアングロサクソンの平均顔が、それぞれ美人顔となるらしい。
 
平均というのは一種の基準値で、そこが原点となっている。原点から一定の振れ幅をもって、たとえば鼻が少し高いとか、目が大きいとか、背が低いという違いがいろいろと現れて個性となり特徴となる。自分は平均よりちょっと顔が丸いかなとか、耳が小さいんじゃないか、色が黒いかなとか、そういうことが気になり、原点から違っていることがコンプレックスの理由になったりする。
 
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つねに人は原点を目指す。なぜならそこが平均であり、大多数の集合地点だと思いこんでいるからだ。いわゆる偏差値50の地点であり、そのど真ん中が最も高い玉座となる。
 
だから、美男美女という原点に立つ人々は人気と憧れの的であり、創作における登場人物は“売れ筋”を狙うとするなら美男美女、美少年、美少女ばかりになる。ラノベの表紙なんて常にそうだ。
 
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イタリアのラヴェンナという町に、サン・ヴィターレ聖堂というのがある。その八角形の建物の中にユスティニアヌスを描いたモザイクがある。イケメンのおっさん達がそろって訪問販売にやってきましたという風な絵なんだが、おそらくこの絵は当時としての美男の基準に合わせて描かれているのだろう。時代が下って描かれる内面の醜さや苦悩が表出されるような作品とは違って、当時の理想形に近づけて描かれていると思う。
 
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“売れ筋”を狙うと、どうしても理想形を目指すことになる。作品に何らかの責任が課せられるからだ。たとえば、読者が手に取りたくなるような表紙絵や装丁にすることで売り上げを高めることだったり、時の権力者におもねって何かを得るためだったりするのだろう。それらは“デザイン”とか“工芸”呼ばれる。
 
いっぽう、そのような責任を背負わない、むしろ製造物責任を問われるんじゃないかと他人が心配するようなものは、“芸術”と呼ばれる。そのような非難・批判という世間様の原点からのズレに何か意味を付与して経済的価値に変換して流通させるというのが美術商の仕事だ。芸術家は責任を背負わないから、完成後の作品の行方にも無関心であるべきだろうし、おそらくそうなんだろう。
 
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映画のような実写の作品においては、ドーランを塗っているとはいっても、生身の俳優が演じていることで、原点に近づけない部分が出てくる。そこが大きいとき、性格派俳優と呼ばれるのだろう。生身の人間が演じることで、原点からの差異がいろいろと出てきて面白いものになる。あえてそのようにして原点を目指さないことで、つまり作品の製造物責任をある程度放棄することで、芸術性が高まるのかもしれない。
 
ユスティニアヌス御一行様。ユスティニアヌス役所広司阿部寛がよさそう。それにしてもみんな頭小さい)

Meister von San Vitale in Ravenna 003.jpg
By Meister von San Vitale in Ravenna - The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM)、distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, Link