四季一筆

徒然に。

皐月十八日、赤信号みんなで渡ると…

昔から言いならわされていることだけど、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」について。
 

実用日本語表現辞典
 
赤信号みんなで渡れば怖くない
読み方:あかしんごうみんなでわたればこわくない
別表記:赤信号皆で渡れば怖くない
 
禁止されていることも、集団でならば心理的な抵抗もなく実施してしまえる、といった意味合いの表現。
 
1980年頃に、ビートたけし氏が広めたらしいけど、当時の情勢としては笑って済ませることができた。なぜかというと、あらゆるものの流通には抵抗や摩擦が大きくて非効率な部分が適度に良い意味で“抑制”として働いていたから。その割に、社会には勢いがあって、その勢いがゆとりとして機能していた。
 
けれども、ネットと情報技術(IT、ICT)の進展が、その非効率さをなくしたことで“抑制”を、効率性が“ゆとり”を消し去ってしまった。いまから30〜40年前のインターネット黎明期には、その手の人間しかネットに出入りしていなかったから一種の実験場とかムラのような機能が存在していて、だからムラ人による監視の目があるので適度に“抑制”が保たれていた。
 
いまのネットは物凄く幅の広い公道と同じで、相互監視の目が行き届かない。
 

I-80 Eastshore Fwy.jpg
By User Minesweeper on en.wikipedia - Minesweeper, CC BY-SA 3.0, Link

 
◇ ◇
 
それに加えて「技術的に可能ならそれを使わないという手はない」というエンジニアリングのエキセントリックさと、“違法ではないが、人の善意につけ込む迷惑”と、電話勧誘や訪問販売というレトロな手法のキメラとして、お馴染みのネット広告が鬱陶しくもウェブページの隅々でちょこまかと動いている。
 
ページの広告、うざくない?
SNSの「いいね」ボタン、邪魔じゃない?
 
スクリプトで後付けで表示されるから、非力な広告サーバのおかげでもたもたガタガタと表示されてみっともないし、本編のページコンテンツが読みにくくていけない。ウェブサイトの“中の人”は自社環境という恵まれたキャッシュで見ているから気づかないだろうけど。
 
◇ ◇
 
まあ、いいや。
 
◇ ◇
 
そんな、使えるものは何でも使ってやれ的心情が、「みんなもってるから」「みんなやってるから」という、まるで思春期の子どもが目指すような方向へと走り始めるわけだけど、果たしてそんな“心の獣道(けものみち)”のようなところを駆け抜けて行って大丈夫なんだろうか――なんて、微塵も思わない。なぜなら、それが我々にとっての“真実”だから。
 
我々が駆け出すから真実なのだ。真実に向かって駆け出しているのではない。
 
◇ ◇
 
何が適切であるか、どこまでが適当であるか、そういうことを自分で考える習慣には、時間・心のゆとり・睡眠といったハードウェアと、考えるための技術(知識、知恵、助け)というソフトウェアが必要だろう。
 
だが、最近の小中学校の先生にはゆとりがなくて、その所為で管理教育が厳しくなり、生徒は指示待ち化し、つまりは考えず、おまけに考えずに余った時間はスマホを通して娯楽で消費され尽くしてしまうという構図らしい。
 
そんな状況で「プログラミング教育」なんてちゃんちゃら可笑しいわけだが、かつて暇に飽かせてコードを追いかけていた世代は既にくたびれ切っているので(私だ)、そんな真理の神秘について語ることもなく沈黙するのみなのだ。
 
◇ ◇
 
自分で考えるということは、つまり、それだけのヒマがあるということで、小人が閑居しても大丈夫な社会が前提なんだけど、ま、昨今はダメかな。キチキチのゆとりのない、まるで崖っぷちから飛び出して揺れている竿の先に引っかかっているのが、いまの私たちだ。
 
赤信号、みんなで渡れば怖くない! と駆け出した先が崖の上の竿で、果たして向こう側に無事に渡りきれるのかどうか。そもそも向こう側は、あるの?