如月二十四日、ずら・い
NHKのサイトで
信頼関係を築いてから面会し、断りずらい環境の中で勧誘する
というのがあるのに夕方気づいて、なおすかなぁ? と思っていたんだけど23時過ぎ現在なおっていないので、ネタにすることにした。
正しくは「断りづらい」。MacOSの日本語入力でも「ことわりずらい」で変換すると、ちゃんと「断りづらい」になるぞ。
「断る」のが「つらい」から「断りづらい」。
大辞林 第三版の解説
つらい【辛い】
( 形 ) [文] ク つら・し
(1) その状態に苦痛を感じ、がまんできない。 「 − ・い修行」 「別れが−・い」
(2) 人に対する仕打ちに思いやりがない。つめたくむごい。無情・冷酷だ。 「 − ・くあたる」 「 − ・い仕打ち」
(3) どうしてよいかわからず苦しむ。困る。 「それを言われると−・い」
(4) 人の心を汲くもうとしない。つれない。 「吉野川よしや人こそ−・からめ/古今 恋五」 → づらい ・苦しい(補説欄)
[派生] −が・る ( 動ラ五[四] ) −げ ( 形動 ) −さ ( 名 )
づらい【辛い】
( 接尾 )
〔形容詞型活用[文] ク づら・し〕
動詞の連用形に付いて、その動作をすることに困難を感ずる意を表す。…にくい。 「老眼で辞書が見−・い」 「読み−・い本」 「無愛想で話し−・い」
ところが、ネット検索すると「断りずらい」という「ずら」がたくさん出てくる。まあ、個人が書いているブログとかツイートのレベルだったら、ワタクシ的には許すけれども、NHKという言葉を武器に組織戦を挑んでいるところが、その組織力を活用しきれていない、もしかしたらどこかが緩んできているんじゃないか、と視聴者が心配しなきゃいけないとしたら、ねぇ。
蟻の一穴というやつ。
ラジオだったら「ことわりづらい」も「ことわりずらい」も分からないから、話し言葉としてのニュース原稿では適切かもしれないけど、ウェブというテキストを使うんだから、少しは気を使ってよ、と。私ごときが流し読みしただけで見つけられるような誤りは、ちょっと、ねぇ。
ねぇ。
◇ ◇
この十年くらい気になっているのに、「すいません」がある。正しくは「すみません」。「済まない」から「済みません」なのであって、「吸わない」から「吸いません」ではない。
目の前で「すいません」とかペコペコされたら、まあ許すけど、これをテキストに定着させてメールで「すいません」とか送ってくると、ちょっと許せないんだけど、て気分になる。「吸いません」て、煙草を吸わないのか、ジュースを吸わないのか、○ッパイを吸わないのか、とかかつては詰問したくなっていたけど、最近は生ぬるく微笑んで見逃してあげることにしている。
仕事で上司がこんなメールを送ってるとしたら、うんざりだわ。
◇ ◇
こんなことを言ったり書いたりすると、こまけーよ、うるぇーよ、とか言われるけど、細かいから大切なんだ。言葉は時代とともに変化していくのは知っている。でも、単なる変化と、害のある劣化とをどうやって区別するのか。
真夜中や深更のことを「真昼(まひる)」の反対だから「真夜(まよる)」とか言わないでしょ? 目が戸惑うところに実感があるからといって「めまい」のこと「まめい」とか言わないでしょ。
◇ ◇
子どもの頃、日本晴の空を見て「真っ晴れ(まっぱれ)」と言っては親に笑われていたけど、それは真っ正面、真っ赤、真っ青、真っ平ら……なんて似た言い方がたくさんあるから、「天晴(あっぱれ)」と音が似ているし、ということで子ども心に思いついた無邪気な間違い。
検索したら、これは日本人の言語的に何か通奏するものがあるらしくて、同じような発想で同じようにつかっている(いた)という人が結構いるみたいだから、微妙な言い回しなんだろうな。
「まっぱれ」で検索:
https://www.google.co.jp/search?q=%E3%81%BE%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%82%8C&oq=%E3%81%BE%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%82%8C
◇ ◇
そういえば、中学一年の最初のバス旅行のときに、車内で色々盛り上がって、「ばかー」と「あほー」を何を慌ててたのか「ばほー」と云っちゃって、それ以降、卒業までの三年間のあだ名が「バホ」になっちゃったやつがいたけど、元気かな。40年経った今でも、「バカ」と「アホ」を融合した新語として「バホ」というのは、結構イケてるんじゃないかと個人的には思っている。まあ、それでも12歳だよね。
◇ ◇
組織力というのは、信頼を醸成するための装置としては、おカネを使って実現できる唯一の形態だと思うわけだ。通常、信頼というのは時間を担保として形作られるもので、長く続けているという実績が裏付けになる。その「長い時間」というやつを、お金を使って組織化して、組織の成員一人ひとりの時間は短いながらも、それをある数量集めて束ねてやると、「のべ時間」としては「長い時間」になるから、自然と信頼というものが立ち現れてくる。
簡単に言っちゃうと、チームで寄ってたかってやっつけるから実行力が高くなるということ。一人のヒットポイントは小さくても、パーティ組んだら無敵に近くなる、という。
でもって、新聞の記事とか放送のニュース原稿というのは、記者が書いて、編集デスクが目を通して、かつては入力オペレーターが目を通して、さらに昔の新聞社なら活字を拾うという作業が挟まって、印刷したあとも一刷り、二刷り……と目を通し、最終版のあともさらに校閲が目を通し、下手すりゃそれでも見逃しがあって読者からありがたいクレーム電話があるので読者室が承って、翌時に訂正記事を掲載して――なんて具合に何重にもフェイルセーフが張り巡らされていた。
が、あなたが今読んでいるようなこういう個人レベルの雑文が、全世界に向けて発信されるような時代になってしまった。この「薔薇色の未来」は正月元旦から毎日書いてるけど、実は毎晩、風呂上がりの半時間ほどで考えて、書いて、パブリッシュしているのだ。実に拙速。
で、話戻るけど、新聞とか放送というのは組織である故の信頼というものが武器のはずで、それをフルに活用しなくてどうするよ、と思うのだ。最近は記者が書いて、それを原稿管理のシステムに直接送信・保存して、その時の担当デスクがちょこちょこと目を通して承認ボタンをクリックしていっちょ上がり、あとは編成会議でどういう重み付けをして並べるかどうするかと決めるだけで、記事内容の一つ一つ、一言一句について吟味するなんて“めんどー”なことは省力化の方向に進んでんのかなぁ、とか思うわけだ。
同様のことはきっと学校とか役所とか省庁とか内閣とかそんなレベルでも広がってきていて、欲望の加速装置であるネットのスピードに頼りすぎているんじゃないかなと。でも、人間そんなに賢くないよ。
「だから、いまこそ AIですよ」とか揉み手摺足のチャンスではあるけど、ね。