四季一筆

徒然に。

水無月十一日、見ない。

 
洗面所に立ち、ヒゲを剃る。ハミガキする。あるいはトイレや、仕事場の椅子に座って沈思黙考にふける。
 
そういうとき、よく目をつぶっている。
 
ヒゲソリやハミガキのときに頼っているのは触覚や音だ。匂いを参照していることもあるかもしれない。指先に触れるノドやアゴの手触りで、剃り残しを探している。ヒゲソリの刃がヒゲの毛に当たり切断する微かな音の変化を聴いている。剃り終われば、指先にヒゲが当たらず、滑らかな肌が広がっているのを感じる。もう邪魔者はいない。
 
ハミガキも同じだ。そしてどちらも頭の中に、見たとしたら「そうであろう」光景を思い描いている。想像している。目をつぶっているけれども、指先や舌先から感じられる感触をもとにして、肌に残っているヒゲや、歯の表面にあたる歯ブラシの毛先を思い描いている。
 
もしかしたら、明かりを消した部屋でのセックスも同様かもしれない。見えないけれども、想い描いている。その材料は視覚以外の触覚や音や匂いだ。
 
◇ ◇
 
ヒゲソリで目をつぶっているのは、重要なこと以外の映像情報をなくすためだろうか。目標はツルツルに剃り上がったアゴや頬であり、それ以外はノイズだ。完璧に磨かれた歯のためには、余計なことは考えない。舌先で感じられる歯の表面に集中する。椅子に座り、どこに問題の核心があるのかをゆっくりと解きほぐしながら考えるとき、部屋の隅に積み上げられた本の山は無関係だ。
 
◇ ◇
 
見ない=見えない、けれども自分のヒゲソリやハミガキや沈思黙考を信頼している。(まあ、ときには考えながら眠ってしまうこともあるけど、それはうっかり瞑想モードに入ってしまったからで)。
 
そこで思うのは、「見えるから信じる」ということは、やはりウソなのではないかということだ。目をつぶり鏡を見なくても、ヒゲソリの仕上がりを信じている。口の中を直接見なくても、ほぼ完璧にハミガキをしていると確信している。
 
◇ ◇
 
もしかしたら、信じるということは「手で触れている」「舌先で感じている」という身体感覚が裏書きしているのではないだろうか。見る以外の身体感覚が合わさって、景色を自分の頭の中で再構成することで、信じることが出来るようになっているのではないだろうか。
 
であるとすると、ロボットやAIというものに五感という身体感覚をもれなく与えることができれば、機械が「信じる」を模倣できるようになるのだろうか。それは既に模倣ではなく「信じ始めている」のではないだろうか。
 
◇ ◇
 
意識や意思というものは、そのようにして身体感覚で信じることかもしれない。シンギュラリティは、そのようにして訪れるのかもしれない。機械が何かを無条件で信じられるようになれば、アンドロイドが電気羊の夢を見始めるのだろう。
 
 
 
 
 

水無月十日、見る。信じる。

 
見ることと信じることとは、あまり関係ない気がする。
 
見えているから信じるというのでもなさそうだ。
 
◇ ◇
 
最近見た夢。
 
どこかの広い建物の屋上に立っている。床面積の広い建物で、学校とか病院とかを思わせる広さだ。高さもかなりあるらしく、屋上のほぼ中央に立っている私からは、街区をいくつか離れたところにあるこんもりと茂った森の梢の頂が、ほぼ私の目の高さに見えている。武蔵野台地の縁だろうか。
 
屋上には黒っぽい防水処置が施してあって、建物の角、隅の方に階段室の小屋、その扉は開かれている。
 
これなら、この屋上を天体観測に使えるな、と考えている私がいる。私はこの建物に暮らしていると確信している。そこに暮らしている何かの証拠となるものを見ているわけではなく、単に屋上の黒い防水処理と、その向こうの森の黒い陰を見ているだけなのに、自分がここに住んでいて、長らくしまわれたままの天体望遠鏡を使って、毎晩この屋上で天体観測をすると確信している。
 
◇ ◇
 
もうひとつ夢の話。
 
よく見る夢に、空を飛ぶエレベータがある。建物の中で上に行ったり下におりたりし続けるという夢をよく見る。そして大概は階段ではなくてエレベータを使っている。そのエレベータが、ときどき建物の最上階を飛び出して空を飛んでいるのだ。
 
実際に飛んでいるのを目撃しているのではない。密室のエレベータが傾き、頼りなく放物線を描いているらしいことが、身体で感じられる。そして、そのエレベータが故障したとか事件に巻き込まれたというのではなく、それが仕様なのだ、空を飛ぶように作られていると私は無条件で信じている。
 
◇ ◇
 
その他にも、現実世界においては荒唐無稽な設定や経験が、夢の中では当たり前に感じられることがたくさんある。夢で見ているものを、私は無条件で信じている。
 
もしかしたら、見えているから信じているのだろうか。見えるから信じるのだとすると、信じるという行為は実に当てにならないことに思われてくる。確かに、手品、トリック、錯覚のようなものを容易に信じてしまうから成り立っている商売があるわけで、人間の感覚がいかにいい加減なものかは、日々の生活で実際に経験することだ。
 
けれども、夢の場合、何かを見ているのではない。見ていないにもかかわらず、荒唐無稽なことを、それで正しいのだと確信している。
 
であるとすると、「見えているから信じる」というのはウソなのだろうか。目覚めて目にしているものを信じることができないこともあれば、見てもいないことを無条件で信用してしまうこともある。夢の中では無邪気に信じている。
 
◇ ◇
 
このように考えると、「信じる」の根拠や由来はどこにあるのだろう、と思い始める。
 
「目で見えるから信じる」、「科学的に合理であるから信じる」というのは、実はそのように我々が信じたいだけなのではないか?
 
 
 
 
 

水無月九日、ツメキリ

 
息子の学校で、インターネットやスマホの使い方についての講義のようなものがあったらしい。ネットの、特にSNS絡みの事件がおき続けているけど、小学生のうちに手を打っておこうということだろう。
 
息子には「中学卒業までスマホはダメ」と言ってあるし、息子に使わせているPCはペアレンタル・コントロールをかけて、定期的に利用状況をチェックし、危ないサイトは遮断するようにしてある。そろそろ思春期の男子だから、学校で色々と「検索キーワード」を教えてもらってきているみたいだけど、残念ながらウチからのアクセスはできない。
 
まあ、そのうちプロテクトとか外されちゃうんだろうけど、蛇の道は蛇。親が専門家なので、親を上回るスキルを身に着けたなら、それで食っていけるようになっているだろうから、それはそれで安心なのかも。
 
◇ ◇
 
小学校の頃、親から禁止されていたことがいろいろとあったけれども、大概、そんな障害は回避しようとするのが子どもというものだ。
 
私が禁止されていたもののひとつは、ツメキリのヤスリを使うこと。ぱっちん、ぱっちんと爪をつむ、あのツメキリの取っ手部分についているヤスリのことだ。「そんなものは商売女が使うもんだ」とか言われた気がする。
 
現在の私はプログラムを書く。つまりPCでキーボードを叩くのが仕事なので、指先や爪に気をつけている。キートップに当たる指先にちょっとでも違和感を感じると、手許に常に置いているツメキリで切り、ヤスリで仕上げる。コンマ何ミリの差なんだけど、それをやるとやらないとでは、仕事の時の気持ちよさ・悪さが全然ちがうのだ。
 
ああ、そういえば、「パソコンなんてオモチャだ」とも言われてたっけか。「そんなもので遊んでないで勉強しろ」と。いまじゃ、パソコンのない世界なんて考えられないけど。
 
◇ ◇
 
私が小学生時代に禁止されていたことのもう一つは、新聞を読むこと。
 
いま、そんなことを言ったら受験生から「えーっ!」と言われるだろう。時事問題は受験の必須分野だからね。けれども、いまから何十年も前の私は、「子どもが新聞を読むなんて生意気だ」と言われていた。
 
なので、半世紀以上生きてきた今でも、いったい一日のうちのいつに新聞を読んだらいいんだろうかと、つねに迷っている。そして自分以外の誰かが同じ部屋にいると、新聞を読むことがひどく恥ずかしく感じられるのだ。困ったもんだ。
 
おかげで、毎日配達された新聞は、読まないまま古新聞となって積み上げられていく。新聞販売店に寄付しているようなもんだな。
 
◇ ◇
 
夜に、急ぎの仕事でプログラムを書いているとき、キートップに爪がカツカツと当たる。思い出すのは、子どもの頃から言い聞かされてきた「夜、ツメを切ると親の死に目に会えない」というやつ。
 
あ、でも、親は死んじゃってんだ……。
口角を上げながら爪を切り、ヤスリで仕上げる。
 
ひどい息子だ。