四季一筆

徒然に。

水無月三日、6月の祝日

梅雨の到来に追いかけられるように、あちこちで運動会をやっている。先週は三軒茶屋で小学校の運動会をやっていたし、きのうは板橋の中学で運動会をやっていた。きょうは中野区の人と運動会の話になったのだが、同じ区でも5月から6月初旬の春開催と、9月末から10月の秋開催と、学校によって異なるところがあるらしい。
 
息子が通う区立小学校は、いつもは秋開催なのだが、去年は校庭整備で夏休み以降の校庭利用ができなかったので、春開催となった。
 
◇ ◇
 
いまから数十年前は、10月10日の体育の日に合わせて秋開催が当たり前だと思っていたけど、いまは各校、各地区の思惑が関係しているのだろう。
 
息子の学校は運動会での鼓笛行進が名物で、その練習時間を確保するために秋開催だ――と聞いている。どこまで本当か知らないけど、そうでなくても4〜6月は健康診断、体力測定などの“検査系行事”がたくさんあるので、運動会の練習なんて出来ないな。遠足もあるし。
 
◇ ◇
 
秋は秋で行事が目白押しな感じだ。音楽会、学芸会、展覧会の“文化系行事”が色々とあるし、なんと言っても6年生は中学受験に向けて殺気立ってきている時期だろうし。進学熱の高い場所では、東京の私立中学受験がおこなわれる2月1日に、クラスの数人しか登校してこなかった、というような話も聞こえてくる。そうしたら、運動会は春開催にしたくなるか。
 
それに9、10、11、12月は祝日が多い。そうやってただでさえ授業日数が減ってしまうと気が気でないでないかもしれない。(まあ、塾はそんなの関係なく授業してるみたいだけど)
 
◇ ◇
 
私が通っていた中高一貫校は、運動会も文化祭も秋開催だった。しかもご丁寧なことに11月の文化の日に全校マラソン大会なんてのがあって、これが高3生にとっては邪魔以外の何ものでもなかったのだろう。のほほんと過ごしていた私は何とも思わずに参加していたけれども、いわゆるデキるやつらは防衛大学校を受験していた。同じ日に受験日のひとつがあたっていて、そこで受験するならマラソン大会に出なくても済むからだ。
 
たぶん、彼らにとっては、3ヶ月後の大学受験シーズン本番のための準備運動のようなものだったのだろう。
 
◇ ◇
 
天気予報によると、東京では次の週半ばに雨予報が出ている。そろそろ梅雨に入るのだろう。この週末は青空が見えて、運動会には好い天気だった。ラジオでは、この好天を活用して、雨対策をしてくださいと言っていた。雨樋の点検とか、側溝のごみ浚いとか。
 
冬物の洗濯と衣替えにも好い。
 
◇ ◇
 
毎年思うのだけど、8月の「山の日」なんてわざわざ休みにしなくても、盆休み、夏休みがあるからいいじゃないか、と。それよりも、休日のない6月に「雨の日」とか作ってくれないだろうか。曇天雨天で、ただでさえ気分がふさぎがちになるのだから、そんな気晴らしの一日とか連休とかがほしいと思う。
 
 
 
 
 

水無月二日、何事もない

ゴミ袋を持って朝の玄関を出ると、週末の青空に白い雲がぽかぽかと浮いていた。暦では夏に入ったが、まるで春の温かい匂いがするような空気で、きょう一日何事もないことが保証されているような気がした。
 
どこか遠くの離れたところには、耕されつつある畑が広がり、耕運機が黄昏時に向けてゆっくりと進んでいるだろう。
 
◇ ◇
 
「きょう一日何事もないことが保証されてい」たのは、いつのことだろう。息子が生まれる前か、結婚する前か、仕事に就く前か、大学に入る前か……。はるかにずっと昔の、最初の夏休みの前かもしれない。
 
◇ ◇
 
「何事もない」というのが、いつの間にか、大概は悪い意味で使われるようになったのか。何の変化もない。進歩も改革も前進もない。ただ安穏と、状況に身を任せて漂っているだけの、無垢をよそおった未必の故意のようなものだから、「何事もない」というのは無責任極まりない、空気がよどんで社会がダメになる、という論法。
 
そうかもしれない。
 
刺激もないし、お祭りもない。平凡で坦々としていて退屈で、時間の流れのどこにも目印がないから、区別がつかない。そんな曖昧なのは良くないことだ。けじめがつかない。反省がない。前向きに反省してもらいたい、な、キミ、と。
 
◇ ◇
 
まあ、いいじゃん。何事もないのだから、それは無事ということ。平凡で坦々としていて退屈に見えるかもしれないけど、毎日のやることが決まっていて、それをやらないと前に進めないのだから。
 
そして、古代から中世にかけての、歴史に残っていない庶民の生活というものを想像する。きっと毎日おなじような仕事、同じような生活、同じような付き合いの繰り返しで、自分のじいさんやおやじが同じことをやっていたから、自分も同じようにやっていく。公家や武士が何をしようと騒ごうと、こちとらの毎日は同じことの繰り返しだし積み重ねなんだ。教会や領主が何を言おうと、畑は耕さないと収穫は期待できない。つまり、そういうことだ。
 
◇ ◇
 
そんなことをぼそぼそ考えながら、きょうもゴミを出し、皿を洗い、洗濯をするのでした。
 
一日暑かった。
 
ふだんと違ったのは、息子と一緒に出かけて、いつもは歩かないような距離を歩いて、ふたりで初めてコンビニのイートインで昼ご飯を食べ、冷たいアイスを食べたこと。こういう幸せというのもあるんだな。
 
 
 
 
 

水無月朔日、人はあそびたい

どうしてこうも我が子は胡乱(うろん)なんだろうか、と思い煩っていたら、私自身の三歳の頃のことをぼんやりと思い出した。
 
においとともに記憶が浮かんでくる。良いにおいではないのに。
 
◇ ◇
 
側溝の底をチョロチョロと流れている汚れた水の流れの中で、白くふやけて死んでいるミミズ。道端のコンクリートのゴミ箱から漂う酸っぱい残飯の腐敗臭。汲取車の甘い排気には、数限りない人々のやるせなさが混合されている。あの太くて緑色のホースが、「ハーッ」と空気を吸い込んでいるのは恐怖だった。小さな自分が吸い込まれてしまいそうで。でも、いつでもホースの先につけてある野球のボールが欲しかった。大人になったら汲取車の運転手になるのが夢だった。
 
◇ ◇
 
人は最初から遊んでいる。社会に出て仕事をするよりもずっと以前、学校に入るより前に、既に人は遊んでいる。だから、人はそれを続けたいのだ。
 
その証拠に、働く必要がなくなると、大概の人は遊んで暮らし始める。ベーシックインカムという制度が懐疑される理由だろう。みんな遊んでしまったら、誰がそのカネを稼ぐんだよ。
 
研究職とか、仕事と遊びの区別の無い人を羨むのも、基本的に人は遊び続けたいからなのだ。
 
◇ ◇
 
遊びたいけど、働かねばならない。遊んでいる人の代わりに働かねばならない。なぜなら、自分が何で遊べばいいのかを忘れているからだ。自分がかつて、何よりも先に遊んでいたことを忘れているからだ。
 
◇ ◇
 
遊ぶというのは、自然を観察することから始まると思う。ベビーカーの中から驚異を見ること。そこから始まる。
 
やがて目のあたりにしている驚異の意味や仕組みに謎を感じる。知ろうとする。そのために、真似てみる。からだを動かしてみる。そして考えたり、あれこれ試してみる。
 
そんな遊びの姿勢をそのまま適切な形で、言い換えれば、大人の世界との整合性を失わない現実的な疑問として、そんな遊びの身構えを持ち続けると「勉強が面白い」と思えるような子になるのだろう。
 
◇ ◇
 
ところが、いつかどこか何かで、ボタンの掛け違いのようなことが起きてしまって、遊びの姿勢を保てなくなり放り出してしまう。何もかもが嫌になる。取り敢えず誰かがくれたものをそのまま右から左に動かす。そこでキラキラ光ったり、カラカラ音が鳴ったりすると反射的に笑う。視神経と聴覚神経を刺激してくれたからだ。
 
けれども、ボタンを掛け違っているので、なぜ光ったりするのか、なぜ鳴るのか、そもそもなぜソレがソコにあるのかについて、思いが巡らない。もう飽きて、次を待っている。誰かが持ってきてくれるのを待っている。けれども、勉強は嫌だ。ニガイから。きっとニガイに違いない。だってニガかったんだもん。
 
勉強しないで遊んでばかり――じゃなくて、遊び方を忘れてしまっているのだ。遊びを禁じることは勉強を禁じることかもしれない。遊びの第一歩に立ち戻ることができるだろうか。
 
◇ ◇
 
どうやったら、本当にニガイのかどうかは口に入れてみないとわからなのだよ、と息子を導けるのだろうか。
 
いや、私自身、そんな食わず嫌いがあって、きっとニガイんだよ、ほら、やっぱりうまくいかない、きっとニガイからだよ――の繰り返しだった。だから、息子に言うことに説得力がない。取り繕ってカッコイイことを言ってみても、その言葉の端っこに負け犬のヨダレがついているのだ。
 
◇ ◇
 
濡れた犬のニオイを思い出した。