四季一筆

徒然に。

謹賀新年 2020

令和二年。

新しい元号になり、その最初の正月ということで、一年半ぶりにポストしてみる。いや、理由なんて何でもいいんだけど、何にでも意味を見出せるのがヒトの優れたところ、スゴイところなんだろうと思う。そのスゴイ能力は誰もが持っていて、「それを使いなさいよ、もったいないよ」とか押し売りするつもりはない。使いたいから使う。

こんな具合に、その時の状況を無理やり変えようというのではなくて、波が来たのを感じたから乗ってみたというような態度は、宿命論的な考え方を基本にしているのかなぁ、と自分自身では思うのだけど、人間の努力でそれを変えられないのだとしても、予めそれが分かっているわけではないから、宿命論て、実は無意味なのかな。

どちらかというと仏教の因果応報のような立ち位置で行きたいと思う。が、自分の考え方を変えるだけで三千世界の未来が変わるとかの並行世界論的なものではなくて、「殺活自在」(せっかつじざい)のような、いや、もっと卑俗な、その場その場で考え方を柔軟に運用することで何とかなるんじゃないか、という立場なんだと思う。場合によっては運用が「止揚」かもしれないけど。

他人に言わせれば「それってつまり、『こうもり』じゃん」ということなのかな。

良い意味での「こうもり」でいきましょう。

水無月十三日、読む

 
本の雑誌 7月号』が到着。巻頭の個人書庫は夢枕獏氏。京極夏彦氏のような黒張りの地下要塞のような書庫もいいけど、夢枕氏の生成りの書棚もいい。ともかくわが家は収蔵量が最大の問題で、本を収納するために引っ越すか家を建てるかしないといけないのかなぁ、と漠然と考えている。
 
◇ ◇
 
本号も「★黒い昼食会」を、登場のA氏〜D氏の声音を変えながら読み上げる。読み上げの相手はカミサン。今号のタイトルは「ノーベル文学賞を返せ!」。カミサンは司書で一応業界人なので、こういう黒い事情についてのウケがいい。
 
まだ眺め始めたばかりの本号なのだが、「新刊めったくたガイド」の『軍艦探偵』(山本巧次)は面白そう。ミステリ好きのカミサンが食いついた。
 
◇ ◇
 
それにしても、あれもこれもと読みたい本が巷に溢れているというのに、人の財力も体力も収蔵量も、そして何よりも時間=寿命が限られていてすべての本が読めないというのは悲しいことだ。悲しいけれども、どうしてこうも本を読まねばならないのだろうか、とも思う。
 
実用書の類いは「知識を得るため」という理由があるけれども、例えば文芸書なんてどうよ。「自分とは違う生き方をしている主人公を通して……云々」なんて優等生的な答えは、大人には通用しない。中学受験まででよろしい。私のように半世紀も生きていると、いい加減あれこれわかってきてしまっているので、そんなカマトトめいた回答は遥か昔にどこかに置き忘れている。
 
ずばり、分類番号913を読む理由は何? 「たのしいから」? ならばスマホでゲームでもやるがよろしい。……ああ、やってるか。だから本の売れ行きが捗々しくないのか。
 
しかし、カミサンは本を読む。息子も「青い鳥」とか「つばさ」を中心にゴクゴクと飲むように読んでいる。なんでだろう。いや、そもそもなぜ私は本を読むのだろうか。
 
◇ ◇
 
たとえば『本の雑誌』の編集者連は相当の本読みのはずで、日常的に常に本を何冊か携行しつつ、食べつつ読み、移動しつつ読み、飲みながら、喋りながら、そして挙句の果ては“出しながら”読んでいるに違いない。
 
そんなに読んでどうする、て、それは本の紹介をするのが仕事だから立派に読書の理由を持っていることになる。うらやましいことだ。ちゃんとした正当な、社会的に認められた理由があって本を読んでいる。
 
◇ ◇
 
そうではなくて、仕事とも、生活の必需とも無関係な913.6なんて読んでどーするよ。本読みが仕事の本読み連の紹介した本を、仕事でも何でもない「一般読者」が読む。それら「本読み連の“読む”」と「一般読者の“読む”」とは、実は似て非なるものなんじゃないか、と思い始めている。だから、「読んでどうする」の質問の前提からして異なっているはずだ。
 
もしかして、「一般読者の“読む”」に対して理由なんて問うてはいけないのかもしれない。読むから読む。ただそれだけでいいじゃないか、と。
 
半世紀生きても、その辺がいまだにわからないのだ。読むから読む。なぜ読む。財力と体力と空間と命を削りつつ読むのは、なぜなのだろうか。
 
 
 
 
 

水無月十二日、次はない

 
日本は失敗を許さない、認めない国だと聞く。一度の失敗で完璧に失脚するとか、再起の機会が与えられない。一度の失敗が死を意味する。それは、心のゆとりの無さが現れているのだろうか。
 
◇ ◇
 
常々、日本は「災害立国」だと思っている。豊富な自然災害が文化的な背景としてあって、そこで暮らしているから、常日頃から有事に備えての根回しや以心伝心の基盤を整える。そのために仕事は丁寧に、礼儀正しく、いざというときに備えたムラ社会を作りたがる――と。
 
それは、人の意志の届かない、通用しない、圧倒的なチカラを持つ自然を相手に暮らしているからだろう。
 
失敗を許さない社会は、本来的には、そのような自然災害によって命がけに暮らしているからだ。一度の失敗が、そのまま死ぬことに直結しているから、何事にも慎重になるし、丁寧な仕事ぶりにつながる。次がないからだ。
 
一度の失敗が死につながるということで、武士の切腹のような決死の“文化”へとつながったのかな、と思うのだ。
 
◇ ◇
 
同時に、その反動・反作用というか、「命がけ」ということを忘れてしまうと、簡単に不正に手を染めてしまう。自分たちが決死の大地に暮らしていることを忘れ、自分自身の思いだけで何事も成し遂げられると錯覚すると、不正も手段のひとつにしか思われなくなる。
 
科学技術や社会的な“溜め”が発展、普及すると、失敗をある程度許容できる社会が立ち現れてくる。それはそれでいいのだけど、同時に「命をかけない社会」になってしまう。すると、慎重さ、丁寧さ、礼儀正しさ、思いやりという“美徳”といわれてきたことが希薄化しやくすくなるのだろう。
 
果たしてその“美徳”を保つべきなのかどうなのかはわからない。今後は「要らないもの」として切り捨てることが出来るのかもしれない。切り捨てて、もっと別の何かを獲得できるのかもしれない。
 
でも、科学技術で自然災害を超克できるほど、人間が優れているとは思えないのだ。
 
◇ ◇
 
天皇皇后両陛下の福島ご訪問を新聞で読み、そんなことを考えていた。