四季一筆

徒然に。

水無月十三日、読む

 
本の雑誌 7月号』が到着。巻頭の個人書庫は夢枕獏氏。京極夏彦氏のような黒張りの地下要塞のような書庫もいいけど、夢枕氏の生成りの書棚もいい。ともかくわが家は収蔵量が最大の問題で、本を収納するために引っ越すか家を建てるかしないといけないのかなぁ、と漠然と考えている。
 
◇ ◇
 
本号も「★黒い昼食会」を、登場のA氏〜D氏の声音を変えながら読み上げる。読み上げの相手はカミサン。今号のタイトルは「ノーベル文学賞を返せ!」。カミサンは司書で一応業界人なので、こういう黒い事情についてのウケがいい。
 
まだ眺め始めたばかりの本号なのだが、「新刊めったくたガイド」の『軍艦探偵』(山本巧次)は面白そう。ミステリ好きのカミサンが食いついた。
 
◇ ◇
 
それにしても、あれもこれもと読みたい本が巷に溢れているというのに、人の財力も体力も収蔵量も、そして何よりも時間=寿命が限られていてすべての本が読めないというのは悲しいことだ。悲しいけれども、どうしてこうも本を読まねばならないのだろうか、とも思う。
 
実用書の類いは「知識を得るため」という理由があるけれども、例えば文芸書なんてどうよ。「自分とは違う生き方をしている主人公を通して……云々」なんて優等生的な答えは、大人には通用しない。中学受験まででよろしい。私のように半世紀も生きていると、いい加減あれこれわかってきてしまっているので、そんなカマトトめいた回答は遥か昔にどこかに置き忘れている。
 
ずばり、分類番号913を読む理由は何? 「たのしいから」? ならばスマホでゲームでもやるがよろしい。……ああ、やってるか。だから本の売れ行きが捗々しくないのか。
 
しかし、カミサンは本を読む。息子も「青い鳥」とか「つばさ」を中心にゴクゴクと飲むように読んでいる。なんでだろう。いや、そもそもなぜ私は本を読むのだろうか。
 
◇ ◇
 
たとえば『本の雑誌』の編集者連は相当の本読みのはずで、日常的に常に本を何冊か携行しつつ、食べつつ読み、移動しつつ読み、飲みながら、喋りながら、そして挙句の果ては“出しながら”読んでいるに違いない。
 
そんなに読んでどうする、て、それは本の紹介をするのが仕事だから立派に読書の理由を持っていることになる。うらやましいことだ。ちゃんとした正当な、社会的に認められた理由があって本を読んでいる。
 
◇ ◇
 
そうではなくて、仕事とも、生活の必需とも無関係な913.6なんて読んでどーするよ。本読みが仕事の本読み連の紹介した本を、仕事でも何でもない「一般読者」が読む。それら「本読み連の“読む”」と「一般読者の“読む”」とは、実は似て非なるものなんじゃないか、と思い始めている。だから、「読んでどうする」の質問の前提からして異なっているはずだ。
 
もしかして、「一般読者の“読む”」に対して理由なんて問うてはいけないのかもしれない。読むから読む。ただそれだけでいいじゃないか、と。
 
半世紀生きても、その辺がいまだにわからないのだ。読むから読む。なぜ読む。財力と体力と空間と命を削りつつ読むのは、なぜなのだろうか。
 
 
 
 
 

水無月十二日、次はない

 
日本は失敗を許さない、認めない国だと聞く。一度の失敗で完璧に失脚するとか、再起の機会が与えられない。一度の失敗が死を意味する。それは、心のゆとりの無さが現れているのだろうか。
 
◇ ◇
 
常々、日本は「災害立国」だと思っている。豊富な自然災害が文化的な背景としてあって、そこで暮らしているから、常日頃から有事に備えての根回しや以心伝心の基盤を整える。そのために仕事は丁寧に、礼儀正しく、いざというときに備えたムラ社会を作りたがる――と。
 
それは、人の意志の届かない、通用しない、圧倒的なチカラを持つ自然を相手に暮らしているからだろう。
 
失敗を許さない社会は、本来的には、そのような自然災害によって命がけに暮らしているからだ。一度の失敗が、そのまま死ぬことに直結しているから、何事にも慎重になるし、丁寧な仕事ぶりにつながる。次がないからだ。
 
一度の失敗が死につながるということで、武士の切腹のような決死の“文化”へとつながったのかな、と思うのだ。
 
◇ ◇
 
同時に、その反動・反作用というか、「命がけ」ということを忘れてしまうと、簡単に不正に手を染めてしまう。自分たちが決死の大地に暮らしていることを忘れ、自分自身の思いだけで何事も成し遂げられると錯覚すると、不正も手段のひとつにしか思われなくなる。
 
科学技術や社会的な“溜め”が発展、普及すると、失敗をある程度許容できる社会が立ち現れてくる。それはそれでいいのだけど、同時に「命をかけない社会」になってしまう。すると、慎重さ、丁寧さ、礼儀正しさ、思いやりという“美徳”といわれてきたことが希薄化しやくすくなるのだろう。
 
果たしてその“美徳”を保つべきなのかどうなのかはわからない。今後は「要らないもの」として切り捨てることが出来るのかもしれない。切り捨てて、もっと別の何かを獲得できるのかもしれない。
 
でも、科学技術で自然災害を超克できるほど、人間が優れているとは思えないのだ。
 
◇ ◇
 
天皇皇后両陛下の福島ご訪問を新聞で読み、そんなことを考えていた。
 
 
 
 
 

水無月十一日、見ない。

 
洗面所に立ち、ヒゲを剃る。ハミガキする。あるいはトイレや、仕事場の椅子に座って沈思黙考にふける。
 
そういうとき、よく目をつぶっている。
 
ヒゲソリやハミガキのときに頼っているのは触覚や音だ。匂いを参照していることもあるかもしれない。指先に触れるノドやアゴの手触りで、剃り残しを探している。ヒゲソリの刃がヒゲの毛に当たり切断する微かな音の変化を聴いている。剃り終われば、指先にヒゲが当たらず、滑らかな肌が広がっているのを感じる。もう邪魔者はいない。
 
ハミガキも同じだ。そしてどちらも頭の中に、見たとしたら「そうであろう」光景を思い描いている。想像している。目をつぶっているけれども、指先や舌先から感じられる感触をもとにして、肌に残っているヒゲや、歯の表面にあたる歯ブラシの毛先を思い描いている。
 
もしかしたら、明かりを消した部屋でのセックスも同様かもしれない。見えないけれども、想い描いている。その材料は視覚以外の触覚や音や匂いだ。
 
◇ ◇
 
ヒゲソリで目をつぶっているのは、重要なこと以外の映像情報をなくすためだろうか。目標はツルツルに剃り上がったアゴや頬であり、それ以外はノイズだ。完璧に磨かれた歯のためには、余計なことは考えない。舌先で感じられる歯の表面に集中する。椅子に座り、どこに問題の核心があるのかをゆっくりと解きほぐしながら考えるとき、部屋の隅に積み上げられた本の山は無関係だ。
 
◇ ◇
 
見ない=見えない、けれども自分のヒゲソリやハミガキや沈思黙考を信頼している。(まあ、ときには考えながら眠ってしまうこともあるけど、それはうっかり瞑想モードに入ってしまったからで)。
 
そこで思うのは、「見えるから信じる」ということは、やはりウソなのではないかということだ。目をつぶり鏡を見なくても、ヒゲソリの仕上がりを信じている。口の中を直接見なくても、ほぼ完璧にハミガキをしていると確信している。
 
◇ ◇
 
もしかしたら、信じるということは「手で触れている」「舌先で感じている」という身体感覚が裏書きしているのではないだろうか。見る以外の身体感覚が合わさって、景色を自分の頭の中で再構成することで、信じることが出来るようになっているのではないだろうか。
 
であるとすると、ロボットやAIというものに五感という身体感覚をもれなく与えることができれば、機械が「信じる」を模倣できるようになるのだろうか。それは既に模倣ではなく「信じ始めている」のではないだろうか。
 
◇ ◇
 
意識や意思というものは、そのようにして身体感覚で信じることかもしれない。シンギュラリティは、そのようにして訪れるのかもしれない。機械が何かを無条件で信じられるようになれば、アンドロイドが電気羊の夢を見始めるのだろう。
 
 
 
 
 

水無月十日、見る。信じる。

 
見ることと信じることとは、あまり関係ない気がする。
 
見えているから信じるというのでもなさそうだ。
 
◇ ◇
 
最近見た夢。
 
どこかの広い建物の屋上に立っている。床面積の広い建物で、学校とか病院とかを思わせる広さだ。高さもかなりあるらしく、屋上のほぼ中央に立っている私からは、街区をいくつか離れたところにあるこんもりと茂った森の梢の頂が、ほぼ私の目の高さに見えている。武蔵野台地の縁だろうか。
 
屋上には黒っぽい防水処置が施してあって、建物の角、隅の方に階段室の小屋、その扉は開かれている。
 
これなら、この屋上を天体観測に使えるな、と考えている私がいる。私はこの建物に暮らしていると確信している。そこに暮らしている何かの証拠となるものを見ているわけではなく、単に屋上の黒い防水処理と、その向こうの森の黒い陰を見ているだけなのに、自分がここに住んでいて、長らくしまわれたままの天体望遠鏡を使って、毎晩この屋上で天体観測をすると確信している。
 
◇ ◇
 
もうひとつ夢の話。
 
よく見る夢に、空を飛ぶエレベータがある。建物の中で上に行ったり下におりたりし続けるという夢をよく見る。そして大概は階段ではなくてエレベータを使っている。そのエレベータが、ときどき建物の最上階を飛び出して空を飛んでいるのだ。
 
実際に飛んでいるのを目撃しているのではない。密室のエレベータが傾き、頼りなく放物線を描いているらしいことが、身体で感じられる。そして、そのエレベータが故障したとか事件に巻き込まれたというのではなく、それが仕様なのだ、空を飛ぶように作られていると私は無条件で信じている。
 
◇ ◇
 
その他にも、現実世界においては荒唐無稽な設定や経験が、夢の中では当たり前に感じられることがたくさんある。夢で見ているものを、私は無条件で信じている。
 
もしかしたら、見えているから信じているのだろうか。見えるから信じるのだとすると、信じるという行為は実に当てにならないことに思われてくる。確かに、手品、トリック、錯覚のようなものを容易に信じてしまうから成り立っている商売があるわけで、人間の感覚がいかにいい加減なものかは、日々の生活で実際に経験することだ。
 
けれども、夢の場合、何かを見ているのではない。見ていないにもかかわらず、荒唐無稽なことを、それで正しいのだと確信している。
 
であるとすると、「見えているから信じる」というのはウソなのだろうか。目覚めて目にしているものを信じることができないこともあれば、見てもいないことを無条件で信用してしまうこともある。夢の中では無邪気に信じている。
 
◇ ◇
 
このように考えると、「信じる」の根拠や由来はどこにあるのだろう、と思い始める。
 
「目で見えるから信じる」、「科学的に合理であるから信じる」というのは、実はそのように我々が信じたいだけなのではないか?
 
 
 
 
 

水無月九日、ツメキリ

 
息子の学校で、インターネットやスマホの使い方についての講義のようなものがあったらしい。ネットの、特にSNS絡みの事件がおき続けているけど、小学生のうちに手を打っておこうということだろう。
 
息子には「中学卒業までスマホはダメ」と言ってあるし、息子に使わせているPCはペアレンタル・コントロールをかけて、定期的に利用状況をチェックし、危ないサイトは遮断するようにしてある。そろそろ思春期の男子だから、学校で色々と「検索キーワード」を教えてもらってきているみたいだけど、残念ながらウチからのアクセスはできない。
 
まあ、そのうちプロテクトとか外されちゃうんだろうけど、蛇の道は蛇。親が専門家なので、親を上回るスキルを身に着けたなら、それで食っていけるようになっているだろうから、それはそれで安心なのかも。
 
◇ ◇
 
小学校の頃、親から禁止されていたことがいろいろとあったけれども、大概、そんな障害は回避しようとするのが子どもというものだ。
 
私が禁止されていたもののひとつは、ツメキリのヤスリを使うこと。ぱっちん、ぱっちんと爪をつむ、あのツメキリの取っ手部分についているヤスリのことだ。「そんなものは商売女が使うもんだ」とか言われた気がする。
 
現在の私はプログラムを書く。つまりPCでキーボードを叩くのが仕事なので、指先や爪に気をつけている。キートップに当たる指先にちょっとでも違和感を感じると、手許に常に置いているツメキリで切り、ヤスリで仕上げる。コンマ何ミリの差なんだけど、それをやるとやらないとでは、仕事の時の気持ちよさ・悪さが全然ちがうのだ。
 
ああ、そういえば、「パソコンなんてオモチャだ」とも言われてたっけか。「そんなもので遊んでないで勉強しろ」と。いまじゃ、パソコンのない世界なんて考えられないけど。
 
◇ ◇
 
私が小学生時代に禁止されていたことのもう一つは、新聞を読むこと。
 
いま、そんなことを言ったら受験生から「えーっ!」と言われるだろう。時事問題は受験の必須分野だからね。けれども、いまから何十年も前の私は、「子どもが新聞を読むなんて生意気だ」と言われていた。
 
なので、半世紀以上生きてきた今でも、いったい一日のうちのいつに新聞を読んだらいいんだろうかと、つねに迷っている。そして自分以外の誰かが同じ部屋にいると、新聞を読むことがひどく恥ずかしく感じられるのだ。困ったもんだ。
 
おかげで、毎日配達された新聞は、読まないまま古新聞となって積み上げられていく。新聞販売店に寄付しているようなもんだな。
 
◇ ◇
 
夜に、急ぎの仕事でプログラムを書いているとき、キートップに爪がカツカツと当たる。思い出すのは、子どもの頃から言い聞かされてきた「夜、ツメを切ると親の死に目に会えない」というやつ。
 
あ、でも、親は死んじゃってんだ……。
口角を上げながら爪を切り、ヤスリで仕上げる。
 
ひどい息子だ。
 
 
 
 
 

水無月八日、夏至間近

 
あと十日ちょっとで夏至。一年で昼が一番長い日がやってくる。12月の冬至から半年で、日に日に昼の時間が伸びているはずで、だから、その最長の日がやってくるのだから気分的にも盛り上がって最高潮! て具合になるなら、日本でも「夏至祭」のようなことを大々的にやっているんだろうと思う。たとえば、バレンタインデーとかハロウィンとか、ああいった人為的な営為が商業的に盛り上がっているみたいに。
 
しかし、冬至もそうなんだが、天文現象による行事というのは、実際のところ、イマイチ盛り上がりに欠けている。最近でこそ、二十四節気とか七十二候とかが話題になっているみたいだけど、それで何かの売上が伸びているとか、あるんだろうか。レターセット? 手ぬぐい? 一筆箋?
 
◇ ◇
 
夏至が盛り上がらないのは、ひとつには梅雨の存在が日照や気分の邪魔をしているのがあるんだろうと思う。昼が長くなってます。さあ、一年で一番昼が長い日です! と言われても、暗い空からシトシトと降り続く雨にどんな顔して返事すればいいのかわからない。
 
さあ、一年で一番夜が長い日です。これから夏に向かって、昼の時間が伸び始めますよ――と言われたところで、師走の慌ただしさでそんなことどうでもいいし、直後にあるクリスマスと正月の輝きにかき消されている。
 
◇ ◇
 
まあ、ともかく、今年の夏至は6月21日にやってくる。そのおかげで日の出時刻が早くなっているのは確かだ。
 
先日、目覚まし時計が鳴ったので寝床から這い出して、アラームを止めて文字盤を見ると、時計の針が55分を指している。ああ、いけない、寝坊した、もうすぐ7時じゃないか、家族を起こさなきゃ――なんて慌ててトイレに入ったり洗面所に入ったり、湯沸かしのスイッチを入れたりなんて、毎朝の一連のドタバタを始め、戸棚の上の電波時計時報を打ったので「7時だよ」と寝床の家族に声がけをした。
 
気づくと、パソコンで鳴り始めるはずのストリーミング放送が始まっていなくて、あれ? ネット落ちたのかな、と思いながらパソコン画面の右下の時刻表示を見る(Windowsです)。すると、「6:01」。あらら、パソコンの内部時計が狂ったのか、どうしたんだ〜? と、カミサンが「おはよー」と起きてきたところで壁掛け時計を見ると、6時3分。
 
そこで、ようやく気がついた。
 
ああ、7時じゃないんだ。1時間早く、家族を起こしてしまった。
 
◇ ◇
 
アラームは5時55分と6時45分にセットしている。5時55分のアラームで目覚めた寝ぼけ頭が、時計の文字盤の長針だけ見て「7時前だ」と勘違いしたのだった。パソコンの内部時計が狂っていて、自分のほうが正しいのだと信じ込んでいた。
 
そして、自分の「7時前説」が絶対だと思いこんでいたのには、外的な理由があることに気づいた。
 
外がやたらに明るいのだ。
 
玄関の明かり採りから入ってくる朝日がやたらに明るいので、「7時前だ」という勘違いを決定的にしてしまった。
 
◇ ◇
 
これだけ明るくなると、一時間くらい早起きして、さっさと活動を始めたほうがいいような気がする。特に年寄りなんて早起きだし、ピーカンに晴れた朝に寝ているなんて勿体無いと思うだろう。だから、「夏時間」だなんてろくでも無いことを考えるのだろう。
 
◇ ◇
 
家族を一時間早く起こしてしまったわけだが、実は、その前夜に学校の宿題を終えられなかった息子は、早起きして作文の仕上げをするつもりだった。「明日は6時に起きて勉強する」と言っていたらしい。私はすっかりそんなこと忘れていたのだが、まあ、怪我の功名か。
 
息子は無事に清書して、登校していった。
 
 
 
 
 

水無月七日、最強の筆記具

 
油性のノック式ボールペンが、自分にとって最強の筆記具となって何年になるだろう。某文具メーカーのノック式の油性ボールペンを随分ながく使い続けている。もちろん、一本のボールペンを使い続けているのではない。パーカーのボールペンだったら、芯を交換しながら同じ軸を使い続けるだろうが、安いボールペンだから使い捨てだ。「捨て」というともったいない感じもするけど、軸は再生プラスティックらしいので、プラごみとして捨てている。再々生することだろう。
 
一本80円と安価なので、60円の替芯はあるみたいだけど使い捨てている。ハードな使い方をするので、インクを使い切る頃には、たいがい、軸が割れ始めているから。
 
◇ ◇
 
まずノック式である理由は、ペンを書く態勢で持ったままでノックして、ペン先の出し入れが出来るということ。これが大事。例えば右利きで、すぐに書けるようにペンを持ったまま、腕を曲げてペンの頭を肩とか胸とかに当ててやれば、ノックされる。いちいち右手の中で持ち替えて親指でノックすることはない。持ちかえることがないから取り落とすこともない。
 
キャップをはずすとか、軸をひねってペン先を出すとか、ペン先を引っ込めるときには軸の横を押さないといけないとか、そういう「たちどころに書きとめる」「素早く仕舞う」という目的に対する障害は、できるだけ少ないほうがいい。
 
◇ ◇
 
安価なのは大事だ。これがゲルインクだったり、滑り止めのラバーグリップだったりすると一本80円は難しくなる。安いのでまとめ買いして、家のあちこちに置いておく。カバンやリュックの中にも一本ずつ放り込んでおく。仕事場のペン立てには3本くらい立てておく。読みかけの本や、使っているノートごとに挟んでおく。安いから出来ることだ。
 
一本500円くらいのペンでこれをやると気兼ねしていけない。愛着だとか、使っているうちに味が出るとか、そういうことに興味はないから。すばやく書きつける。ただそれだけのためにある。愛着だとか味だとかは、自分の書きつける文字や言葉に見い出せばいい。
 
◇ ◇
 
安価な条件としての「ラバーグリップ無し」だが、「非ラバーグリップ」ということ自体が私には重要。時間が経つとベタベタしてくるラバーグリップが大嫌いで、この世から撲滅したいくらいだ。それに、服のポケットへの出し入れにラバーグリップはひっかかっていけない。その点、安価なノック式ボールペンはスムースに出し入れできる。ズボンのポケットに入れておいて落としてなくしても惜しくないし。
 
そうなのだ。ペン先が格納されるというのは、シャツやズボンのポケットに突っ込んで持ち歩くには必須要件なのだ。
 
◇ ◇
 
かつてはあれこれ試していた。6色ボールペンだとか、ひねるとペン先が出てくるお高いゲルインク型だとか、キャップ式だとか。
 
そもそも、なんで今さら「ペン」なんだよ、とも思われるかもしれない。スマホがあるのに、ペンとメモ帳とか、時代錯誤じゃん。
 
◇ ◇
 
「やっぱり情報はデジタルだよ」なんてカッコつけてSIIのA4ワープロとか、Visorのような PDAとかノートパソコンだとかを持ち歩いたりなんて20〜30代を送ったりした。だが、やはり素早さを求めると単機能やアナログに落ち着くのだ。
 
写真を取るのならコンデジだし、ICレコーダで会議を録音する。調べ物なら電子辞書。スマホの、スワイプして、ロックを解除して、アプリを呼び出して、ロゴマークが表示されて、ようやく起動して……なんてまどろっこしいことをしていると、いま思っていることを書きつけることができない。眼の前にあるものを撮る・録ることができない。
 
そもそも個人利用の“情報”だから、デジタル化して再利用する必要がないのだ。コピー&ペーストは、文字通りコピー機で複写して、糊で切り貼りしている。それが一番簡便なのだ。電気も電波も不要。ノートを開けばそこにある。そのノートにも、ノート専用のボールペンを挟んである。
 
◇ ◇
 
ということで、私はきょうも三菱鉛筆の SN-80というノック式油性ボールペンを持ち歩いている。
 
 
 
 
 

水無月六日、梅雨入り

とうとう東京にも梅雨が訪れた。これからひと月半、「忍」の一字で耐え忍べば光あふれる夏がやってくる! なんて思えたのは大学生までのことで、会社で働き始めたら何のことはない。梅雨だろうと夏だろうと、開くことのない窓の内側で、いや、そもそも窓すら無い部屋でプログラムを書き続けて、夏休みってなんだっけ、という毎日を過ごしてきた。
 
◇ ◇
 
去年の東京の梅雨入りは6月7日で、今年とほぼ同じ。去年の梅雨明けは7月6日で、低い雲が真っ白に輝きながら西に動いて梅雨明けとなった。今年はどんな梅雨明けだろうか。
 
梅雨がすっかり邪魔者になっている。
 
 
 
気象庁|平成30年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)
http://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/baiu/sokuhou_baiu.html
 
 
 
 
 

水無月五日、炭酸水

数年前のこと、ふだん何を飲んでいるかという話題になった。話の相手はみんな地元を中心に働いている人たち。「地元」といっても都心から十キロあまりしか離れていないところなんだけど。
 
「炭酸水」と応えると「えーっ!」と驚かれてしまった。全員オッサンだったんだけど、あれ? こんな反応か? と。無糖の炭酸水を日常的に飲むのを珍しがられてしまった。でも、会社では普通に自販機に NUDAとかウィルキンスンとか入っているし、机の上に置いてあっても違和感ないし。
 
◇ ◇
 
キリンの NUDAが出たのが2006年。出た当時は、ああ、こういうのを待っていたんだよ、甘くなくて、コーヒーでもなくて、しかも炭酸が入っているやつ。もちろんノン・アルコール。
 
そして2006年当時に思い出していたのは、シンビーノ ジャワティだった。発売は1988年だったらしい。甘くないストレートの紅茶味。そもそも30年前にコンビニはあったけど、そこで買う飲料水は殆ど全てが味付きで、大概は甘かった。あれが苦手だった。ビールテイストはバービカンくらいしかなかった。
 
地元のオジサンたちから驚かれて数年たったいまも、一番良く買って飲んでいるのは無糖炭酸水で、自宅の冷蔵庫で冷えているのは近所のスーパーの独自ブランド 500ML 1本58円。だから気軽に飲める。
 
◇ ◇
 
ビールは、嫌いではないけど、昼間から酔っ払うのはアレだし、そもそも酔ってしまうと、もともと粗末な頭の中がますます濁ってしまう感じがするので苦手だ。なので、炭酸水。
 
会社時代には、外回りの途中で丸の内の料亭に入ってビール付きの昼食なんて上司がいたけど、そういうのは苦手。
 
この頃は、本物のビールと良く似たラベルのノンアルコールビール風飲料があって助かる。座を白けさせないから。各自飲み物を持参の夜の会合では、そういうのを持ち込んで素知らぬ顔をして過ごしている。まさに文字通りの素面(しらふ)だ。にこにこしながら周囲の酔っぱらいを観察してます。
 
 
 
 

水無月四日、タクシーという贅沢

都心から西に向けて走る鉄道はあるが、都心を中心として環七とか山手通りと平行に同心円を描くように走る鉄道がない。ということで、板橋から中野、世田谷方面への移動には、いったん山手線あたりまで入り込んで南北に移動して、それから西に向かうことになる。
 
けれども急いでいるときには、いちいち副都心線で新宿に出てから総武線に乗り換えて……なんてことはまだろっこしいので、バスを使うことになる。けれどもバスはバス停にしか止まらない。そして今日は朝から陽射しが強くてマイった。
 
◇ ◇
 
バスを降りて、バス停から10分ほど歩いて出先についたときには汗びっしょりで、取り敢えず上着なしで来たけど、半袖シャツにすればよかった、と後悔した。
 
◇ ◇
 
帰りがちょっと遅くなって、そろそろ息子が小学校から帰ってくる時間だから、急いで帰らないといけない。加えて、まだまだ日射しが強くて、この中をテクテク歩いたりとか電車を乗り換えたりとかはうんざりだ。暑さ馴れしていないので頭が少し痛いみたいだし。

ということで、明治的表現で「奮発して」タクシーを使った。出先から自宅まで6キロちょっと。バスや鉄道を使うと小一時間かかるところが、10分ちょっとで到着。けさの苦労はいったい何だったんだ。
 
タクシーの中ではノートにメモを書いたりできたし、涼しかったし、なんと言っても家の前まで運んでくれるからラク。これなら2300円の料金も納得できる気がした。
 
◇ ◇
 
よく、タクシーは贅沢だなぁ、と思うのだけど、車を所有するほうがずっと贅沢――というより無駄だなぁ、と思う。それに、運賃を惜しんでバス停や駅ホームで途方にくれるのも莫迦らしい。
 
きょうは出先で色々とためになるお話を伺うことができたんだけど、それよりも何よりも、本日の収穫はタクシーの快適さを再確認できたことかもしれない。
 
もちろん、息子の下校時間には間に合いました。